バツイチ子持ちの私、母の介護、父との確執、不義理な兄たちとの遺産相続争い、成人する娘へのけじめ、唯一の癒しとなる愛猫のお話です。創作ではありません。
そこに愛はありますか?…突然の介護から…
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父の四十九日法要
2012-05-31-Thu  CATEGORY: 介護と兄弟関係
父の四十九日法要の日が迫っていた。

車いすの母親が参列しやすい場所で四十九日法要をするのが
望ましいと三男がいい、私も同意してそれを長男にも伝え、
車いすで押して来られる私のマンションの部屋ですることになった。

そのことは次男にも伝え、次男も奇人の嫁と一緒に参列した。
私のマンションを訪れるのも初めてだが、母用に改築されていることなど
まったく知らなかったようで、壁もなくワンフロアーの部屋に
不思議そうな顔をしている次男夫婦だった。

午後から法要をした。まだ階下の賃貸の部屋を解約して戻した荷物が
片づいていない状態で、狭い場所での法要だったが、
母が車いすでそのまま部屋に入れる状態は残っているし、
参列は母と兄夫婦だけなので、なんとかなるだろうと思っていた。

その日は、私が徒歩で母の施設に行って車いすの母を押して
歩いて自宅まで連れてきていた。

葬儀のときにお願いした僧侶の法要も終わり、
終わったとたんに、私が出したお茶を飲み終えた次男夫婦は
お礼も、母への声かけもなく、無言で帰って行った。
こんなやつが町内会長を務めているのかと思うと吐き気がしてきた。

遺骨は三男と長男と2人で車で父の生まれ故郷の広島にある墓と
大阪の一心寺に分骨することになり、その日に預けた。

みんなが帰った後で、徒歩で母をまた施設まで連れて戻り、
部屋のベッドに寝かせて、私はいったん帰宅。

夕方、法要の後片づけを済ませて、施設へ夕食の食事介助のために
再訪問した。

すべて介助を済ませていつもどおりに、母には
「明日また来るからね」と約束して私は自宅へ帰った。
長い一日だった。

つづく

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階下の賃貸の部屋を解約
2012-05-30-Wed  CATEGORY: 母子生活
私が脳梗塞により後遺症が残って障害者6級にはなってしまったが、
退院をして、少しずつ普通の生活を自力でできるまで回復し、
母も施設を転々としたが、最終的に特別養護老人ホームに入居できたことで
定住場所を確保し、これまで自分の部屋を万が一の為の自宅介護再開用に
そのままにしておく必要がなくなった。

階下に借りている部屋も、娘も無事に大学に通っているし
必要なくなったこともあり、父の葬儀から半月が経った今、
解約返還することにした。

元々自分の部屋を改築する前にあわてて階下に移した荷物も
不要なものを粗大ゴミで処分して、なるべく荷物を少なくして
階上の自分の部屋にひとりで何度も往復して運んだ。

その時にマンションの管理人のおじさんがとても親切で
荷物を運ぶのを手伝ってくれた。

後でお礼をしなければと思い、後日、菓子折を持って管理人室を
訪れたが、管理人は受け取らず、またお願いしたいことがあったら
遠慮無く言いますから…とその場を濁された。

つづく
父の告別式
2012-05-29-Tue  CATEGORY: 介護と兄弟関係
翌日、午前9時半に施設へ行き、朝食を済ませた母に黒い服を着せて、
オムツなど長時間対策もとり、再び母を車に乗せて会場に向かった。

控え室に入ると母の亡き姉の娘2人も来てくれていて、
その2人の顔を見るなり声をだして泣き出してしまった。
母が病気になってから会ったのはこれが最初で感激していた。

午前11時、家族写真撮影、あいまにトイレへ連れて行き、
尿とりパッドを取り替えた。
午前11時半、持参していたあんパンと牛乳を母に昼食がわりに食べさせた。

午後12時、告別式開始。母を車いすで前列に座わらせて、私がそばについていた。
昨日の通夜と同じく母が失語症になったと知らない知人や近所の人たちが
次々と母に声をかけるが、母はうなずくだけだった。

私は通夜とは違って式の最中にしゃべることができないから、
母が車いすに座っていることで、その人たちもある程度は察してくれることを願った。

喪主は長男がつとめたが、葬儀全般を取り仕切ったのは三男で、
三男は国税局に勤めているから、大勢の税務署関係の人に、式の案内なども
手伝ってもらい、署内で何度もそういう経験をするらしく、手慣れた感じだった。
dが、弔電の朗読の際、何通も何通も「大阪国税局…○○課○○様…」が限りなく続き、
せっかくいただいてはいるが、母のことを思うと少し苛立ちを覚えた。

三男の世間や職場への対面を気にした葬儀で、とにかく派手な告別式であり、
私のように介護で世間から離れた人間にとってはとても苦痛に思えた。
父には立派な葬式で良かったということなのだろうが…。

午後1時半、告別式が終了し、斎場へマイクロバスで家族は出発だが、
母は車いすでこれ以上座り続けるには限界がきているので、
私だけが斎場へは行かずに、母を自分の車で、施設に連れて帰った。
自分の車の助手席に母を移動させているときに、
ずっと母の移動をしているときに兄たちは見向きもしないが、
父にお世話になったと言ってきてくれた近所の人が
あわてて駆け寄って来てくれて私の介助を手伝ってくれた。
本当に優しい人である。その時も「こんな人が兄だったらよかった…」と
思った私であった。

午後2時半、施設のスタッフに「今日は母の夕食の介助は来られないので
すみませんがよろしくお願いします」と母を頼んで、私はまた会場へ向かった。

一同は斎場での骨拾いまでの待ち時間に会場までまた戻っていて、
受付を手伝ってくれた税務署の人たちと一緒に食事をしていた。

その後、時間が来たので斎場へ行き、骨拾いを済ませて、
お骨とともにまた会場に戻って初七日法要も行い、
遺骨、遺影は四十九日法要まで私宅で祭ることになった。
母がスムーズに車いすで出入りできる家は私の家だけかったからで、
私は遺骨、遺影を持って、葬儀屋の人と一緒に帰宅した。

葬儀屋の人が私の部屋に祭壇をつくってくれてた。
葬儀屋が帰ったあとで、その遺影に向かってポツン座って
放心状態になっている私だった。

つづく
父の通夜
2012-05-28-Mon  CATEGORY: 介護と兄弟関係
通夜の当日、午後4時に施設へ母を迎えにいった。

喪服は片麻痺の母には着用が無理なので黒いサマーブラウスと
黒いズボンをはかせて、黒いリハビリシューズを履かせた。

長時間用の尿とりパッドを二重にはめて、
その他にも一応、便が出たときように予備も持った。
果たして、葬儀会場で障害者用のトイレでどこまで
母の処置ができるかは疑問だった。

とにかく車で葬儀会場まで、母を助手席に移し乗せ、
車いすを荷台に積んで、「お母ちゃん、今日はがんばろうね!」と
声をかけて運転した。

着いて、車いすで控え室へ。車いすから、控え室(和室)の座椅子に
移動させて、しばらくここで待つように母に声をかけたら、
うなずいて、私の手をそっと握っていた。

そんなときに長男が、次男、三男、私を別室へ呼び、
「わしはオヤジの遺産はうけとらへんからな!相続は放棄するから。
これだけは伝えとくわ!」と怒鳴るように話した。
父の介護を一度もしないままだったから、格好をつけての言動のようだ。
何もこんな通夜の日にそんなことを言わなくてもいいのにと思った。

だが、それ以降、長男から相続放棄の話は出ていないし、
後に行われる相続の調停でも、放棄するとは一言も言わなかった。
あれはなんだったのか…。

午後6時半、通夜開始。通夜会場に母と車いすで移動し、
僧侶の供養も無事終了。実家の近所の人たちが久しぶりに見た母に
声をかけるが、母は失語症だからと私が一人一人に挨拶をした。

午後8時になり、幸い母の便も出ていない。
これ以上は母を車いすに座り続けることも困難であり、
私は、また自分の車で施設まで連れて帰った。

午後8時半、施設のスタッフの人が夕食を残しておいてくれたので
それを母に食べさせて、歯ブラシや着替えなど済ませベッドに寝かせた。

午後9時、明日は朝から迎えにくると話して、母の部屋を出て
私は再び葬儀会場へ戻った。
夜通しの、線香守は長男と三男が泊まりがけですることになっていたので、
私は私の娘と、三男の妻、三男の息子2人を車に乗せて、各自宅へ戻った。

この通夜の間も次男は母に声を一度かけただけで、次男嫁とずっと
なにやら話していて、途中、次男嫁は大きな声で笑ったりしていた。
あまりに、不謹慎な態度に私も三男も呆れていた。


つづく
父の死去
2012-05-27-Sun  CATEGORY: 介護と兄弟関係
午後1時、母を施設に残して、私は再度、父の病院へ行った。

ずっと危篤のまま、時間だけが過ぎ、母も気になるので、
どうするか悩んだが、結局、夕方に再度施設へ戻った。

母に「もうお父ちゃんは、ダメやわ…」と伝えると母は小さく頷いた。

そのまま夕食介助をしている間に、三男嫁から私の携帯に父死去の知らせを受けた。

母をベッドに寝かせ「明日また来るから」と伝えて、
私は自宅に戻って娘を連れてまた父が亡くなった病院に向かった。

私と娘とで亡き父の手を握って泣いていたら、少し奇人である次男嫁が部屋にきて
「私の旦那に葬式させたってよ!」と声をあらげて言ったが、
三男はもう葬儀屋は手配したからと断った。
次男は、自分の住んでいるところの町内会長をしているらしく、
父親の葬儀を取り仕切るのが、葬儀も慣れているし、町内に顔も立つ、
そんな理由だったようだが、父の死の悲しみよりも自分の保身を気にするのは
さすがに、一度も母親の見舞いにも来ないだけのあるサイコな次男カップルだった。

後で三男嫁に聞くと、父が亡くなる寸前に、次男とその嫁はロビーにいたが
嫁だけが「まだ死んでないの?」と聞きにきたらしい…。
人間、どうやったらこんな心ないことができるようになるのだろう…。
自分の兄、その嫁とは、とうてい思えなかった。

しばらくして、三男が手配した葬儀屋の車が迎えに来て、
父の遺体を、会場に運んだ。
病院にいた家族は銘々で会場に行くことになり、
私は自分の車で娘を連れて移動した。

通夜は2日後、告別式はその翌日と決めた。

私は母を通夜と告別式ともに、私の車に乗せて連れてくることになり、
乗り降りの頻度が多いので大変なこと(車いすから車への移動は大変)
頭には通夜と葬儀中のオムツや食事のことばかりが気になっていた。

でも、父の葬儀については三男にまかせて、私は母のことばかりを
気にしていたが、それで父の死に対する悲しみを紛らわせていたかもしれない。

つづく
父、危篤
2012-05-26-Sat  CATEGORY: 介護と兄弟関係
移った特養での生活も慣れてきたころ、10日ほどたったある日、
朝、三男から電話があり、いよいよ父が危ないと聞いた。

すぐに私は母を迎えに施設へ向かった。午前10時、スタッフに父危篤のことを話し、
母の外出許可をもらい、病院まで私の車で連れて行った。

午前10時半、父の部屋のある階の待合ロビーでは、まったく母の見舞いに来ない
次男がソファに座っていた。私は次男には別に何も声をかけずに、
母を父の病室へ連れていった。

父は酸素マスクをして、目がもうろうとしているが、母がきたことを認識できたようで、
母の手を握る。母も少し声を出した。
だが母はもうこの時には声をだして泣いていない。
父がもう危ないことは悟っているようだった。
ずっと父を見つめるだけの母だった。

1時間後、痛くて苦しむ父にさらにキツイ薬の投与がされ、
父の意識がなくなる。
狭い部屋で母の車いすが看護師らの動きを止めることもあり、
私は母を施設へ連れて帰った。

午後12時、施設に戻ってすぐに昼食を介助したが
母は半分も食べなかった。やはり、食欲はないようだ。

父のことが気がかりだが、話せない、動けない母にとって
もうどうすることもできないのがもどかしかったようだ。
私に何度も「あ-、もー」と声を出して話しかけていた。

つづく
老健から特養へ
2012-05-25-Fri  CATEGORY: 介護と兄弟関係
父の見舞いの日から、間もなく、私の家の近くにある特別養護老人ホームから
電話連絡があり、空きが出たので入所できるとのことだった。

今居てる老健の施設のスタッフがとてもよかったのでやや戸惑ったが、
特養ならば、もうずっと置いてもらえること、自宅から近いこと、
元々自宅介護のときのケアマネージャーがこの特養に勤めている人だったこと、
など利点を考えて、移ることにした。

移動日、その日の午後、いつもより早めに老健施設へ車で行き、退所準備をした。
母も次のところがまた最初に入った特養のようだったら…と思ったのか
不安そうな顔しきりだった。

おやつの時間を済ませ、次ぎに入所する特養の車が迎えにきてくれて
母は車いすで移動。
私は自分の車で荷物を運んで移動した。

到着後、すぐに3階の部屋に案内され、荷物を整理した。
その後で、入居者専門のケアマネージャー、3階のスタッフを紹介してもらい、
施設内の説明も受けた。

母を部屋に残して、私は1階ロビーで、契約ほか打合せをした。
そのときに父が癌で入院中とも説明した。

それが済んで3階に戻り、夕方、車いすで食堂へ、飲み薬投与。
午後6時に夕食介助。ほぼ完食してくれた。
どうやら、母もこの施設で納得したようだ。

食後、部屋に戻って歯ブラシとうがい、パジャマに着替えて
テープ型オムツに交換。

午後7時半、明日もくると約束して私は帰宅した。

つづく
母を連れて父の見舞い
2012-05-24-Thu  CATEGORY: 介護と兄弟関係
父が、再入院してから、間無しの夏の暑い日、母の施設のスタッフに
父の入院のことを伝えて外出許可をもらい、私の車で母を連れて、
父の見舞いに行った。

父は母の顔を見て、やや照れくさそうにしながら、
三男が何回も仕事を休んで自分の面倒を見ていることに申し訳ないと
泣きそうな顔で私に話した。

母は父の手を握って泣いていた。これが父と母が会話らしきものを
交わした最後となってしまった。

私は母の面倒を見るからという理由で、あまりに父のことをかまわず
三男夫婦に任せっぱなしだったように思う。

その父を見舞った日も、母の施設での夕食に間に合うように母を
施設に連れ帰っている。母のオムツ交換もしたかったからだが、
オムツを持参していれば、もっと長く父のそばに居られたのではないかと、
後で何度も悔やむことも多かった。

つづく
父の介護…
2012-05-23-Wed  CATEGORY: 介護と兄弟関係
私は、自分の脳外科での術後のカテーテル検査で1泊2日入院しているが、
それ以外の毎日、夕方かならず、母の施設(隣の区の老健)に食事介助と
就寝までの世話に行っていた。

三男宅には長男が妻を連れて、父親は自分宅で見るといって父を迎えにきた
ことがあったらしいが、その場で長男嫁が自分はパートの仕事をしていて
実質介護は無理と三男嫁に訴え、それを察知した父が「わしは行かん!」と
言って長男は嫁を睨み付けながらもしぶしぶ帰ったと聞いている。

それから間もなく、父が自宅に戻ってひとりで寝ていると三男から聞いた。
息子たちが自分の介護でもめているのが嫌だったのだろうか…。
私は実家で一人寝ている父を見舞い、なぜ三男の家を出たのか訪ね、
「三男の家で世話になるのが嫌ならば、母も私も心配しているから、
きちっと入院してしっかりガン治療ほしい」と説得した。

今思えば、父は私が母を引き取ったように自分も私の家に引き取って
ほしかったのではないかと、後悔している。

私がその場で一緒にうちへ行こうと言わなかったからか、
それからすぐに父は再度、三男の家の近所の病院に再入院した。

結局、父が三男の家で世話になったのは、たったの1ヶ月弱だったのだが
三男はこのことを、さも自分がずっと面倒を見てきたかのように
自負している姿が私には滑稽に見えた。

つづく
父のガンと病院嫌い
2012-05-22-Tue  CATEGORY: 介護と兄弟関係
私と母が比較的おだやかな日々を送っているこの時期に、
三男から、父がガンになっていると聞かされた。

三男が病院嫌いの父を説得して、三男の知り合いの病院で
検査をして、ガンにかかっていると診断されたらしい。

どこが発症場所かはもうわからないが、すでに進んでしまって
骨にも転移していると聞かされた。

父のことは三男にまかせて、私は母の施設に通っての介護と
自分の療養、娘の大学生活の支援などをしていて
父にあまり会うこともなくなっていた。なので余計にショックだった。

今後は母の居た病院とは違う、三男の家に近い総合病院に入院するとのことで、
入院中の父親の付き添いは三男夫婦がするとのことだった。

もともと父は病院嫌いで、一旦は入院はしたものの、治療中も暴れて、
先生や看護師たちからも呆れられ、どうしても退院したいと言い、
結局、無理やり退院して、三男宅にて療養することにしたと、
また電話で知らせてきた。

三男は、ずっと父の持っていた古家で何年もタダ同然の家賃で暮らしていたが
そこの改築を父に相談して断られ、逆ギレしてその家を出て、
ローンで新築マンションを購入して住んでいた。
約5千万円のローンらしく、母がよく我が家にやってきたときに
そのことを愚痴っていた。 そのマンションは私の中古マンションより
はるかに広くて、便利なのだが、父を引き取って療養することは
大変だと、私にぼやいていた。 私はあまり耳を貸さなかった。

つづく
自分の身体障害者認定
2012-05-21-Mon  CATEGORY: 母子生活
このころ、私はまた脳外科でもやもや病の血流や残っている動脈瘤の
様子をみるために、カテーテル検査をしている。

そのときに、身体障害者の申請をすることにして主治医に診断書を
書いてもらった。

時々つまずきながらも、なんとかまっすぐ歩けるようになり、
視界がぐるぐる回ることもなくなった。
左半身の軽いしびれは残っていて、身体が左に傾くと補正できないで
そのままよろける症状はそのままである。

運動できなので、体重が増え、見た目にはぽっちゃりとして健康的に
見えるようだ。

結局、人混みの中で歩いたり、仕事をするときにうつむいた姿勢を続けると
気分が悪くなるが、他人からはそんなことは解らないので
どうしても身体障害者として認定してもらう必要があった。

申請した結果、身障6級を認定された。

だが、健常者の兄たちに比べてはるかに多くの母の介護をやっている。
皮肉なものだと思った。

母が今の老健に入所しているのは有り難いが、いずれは出なくてはならず、
次ぎに良い特養に入れないのなら、最悪、また私が自宅介護をしなくては
ならないかもしれない。

そのために、改築した自分のマンションの部屋はそのままにして、
賃貸している階下の部屋で娘と一緒に生活していた。

父もはっきり決まるまでそれで良いと言っていたのでずっとそのままだった。

私も、今のこの身体の状態で、母の施設に通いながら、また階下の荷物を
引越する体力はなかった。

つづく
施設スタッフの大切さ
2012-05-20-Sun  CATEGORY: 介護と兄弟関係
いよいよ、このひどい特養を離れて、次の老健へ移動する日がきた。

特養の退所準備を済ませ、昼過ぎに老健からの迎えの車で移動。
私は自分の車で後を追った。

到着して、入ったとたんに清潔で明るい雰囲気に母はうれしそうに
私の顔をみた。母も生き返った気がしたのだろう。

すでに契約は済ませているので、スタッフの紹介、施設内の説明などを
してもらってから部屋へ。
荷物の整理をしていて感じたことは、男性スタッフが多く、
どの人も丁寧で親切だったことだ。
私が作成した母の注意書きも担当のスタッフ全員が目をとおしてくれており、
詳しく打合せをしてくれた。

特養に滞在の間に、足の浮腫がひどくなり、今後の足のマッサージや、
リハビリなどを念入りに説明してくれた。

夕方、飲み薬を投与して夕食を介助した。母は食欲もあり、ほぼ完食した。
夕食介助のスタッフに、「家族さんが食べさせてくれるほうが食も進むので
出来るだけ介助に来てほしいです。」と言われ、私も夕食だけは必ず毎日くると
返事した。

部屋に戻って歯ブラシ、うがいを済ませ、パジャマに着替えさせてベッドに寝かせた。

午後7時、明日また来ると母と約束して私は帰宅した。母も引き留めるような態度はなかった。

この施設にずっと母を預かって欲しいと思ったが、ここは老健なので、
あくまで自宅へ帰るための支援施設で長くて半年ほどしか入所できないのが
とても残念だった。でもあのヒドイ特養を出ることができただけでも
喜ばなければならない。

翌日の夕方、私は朝からは施設に行かずに、夕方に車で行った。

母はレクレーションルームに居た。スタッフがすぐに私のところに来て
今日は足のマッサージをしたと報告をしてくれた。

その他にスタッフがいろいろと余興をしているらしく、
今日の余興に母がすごく笑顔を見せていたらしい。

母に「よかったね?」と言うと、大きくうなずいた。顔がおだやかである。

その後で、部屋でトイレ誘導。食堂で飲み薬投与、夕食を介助した。
今日もほぼ完食してくれた。この時の母は普通食ではなく、きざみ食になっていた。

部屋にもどり歯ブラシとうがい。パジャマに着替えさせてベッドへ移し、
「また明日ね?」と声をかけると、泣くこともなく、左手を上げて見送ってくれた。

こんな穏やかは母は久しぶりで、私もホッとした。

つづく
朗報がきた!
2012-05-19-Sat  CATEGORY: 介護と兄弟関係
1ヶ月が過ぎ、悩み続けていた私のもとに、ずっとキャンセル待ち
だった老健のひとつから空きが出たので入所できると連絡があった。

とにかく、この今の特養から出られるのならどこへでも行く!と思った。
まさに私には朗報だった。

その老健も同じく隣の区にあり、今の特養よりもさらに遠い場所だが、
大阪市が運営しているところなので、やや期待して、すぐに面談に行った。

今の特養に比べて施設も広く、部屋も明るく清潔だ。
とくに老健なので、しっかりとリハビリをしてもらえるから嬉しかった。

何の迷いもなく、入所を決めて、すぐに契約書などを交わすことにした。
職員の対応もとてもよく、施設内の案内も丁寧にしてもらえた。
私の作成した母に関する注意書きも、「助かります!」と喜んでもらえた。

後日関係者から聞いた話では、この特養の経営者夫婦は借金返済できずに、
施設を手放しているらしい。今現在は違う経営者が運営しているとのことである。
やはりひどい状態に原因はあったのだ。

つづく
私はもう用済み?!
2012-05-18-Fri  CATEGORY: 介護と兄弟関係
母の施設が本当にヒドイ!だから何とかしなくては!!…と
そればかりを考えて、三男に何度も電話した。

私が「こんな様子ならもう一度自宅に引き取りたい」と言うと、
兄は「病人が生意気なことを言うな!俺が申し込んだ施設に文句をつけるな!」と
怒鳴り、ちょっと仕事を休んで申し込んだらすべて意中にした気でいる
この三男に腹が立ったが、残念ながら身内のなかで少しでも手伝えるのは
この三男しかいないので、しょうがなく母をそのまま滞在させていた。

入院中と同じく毎日、この施設に朝から夜まで通い、スタッフが
しないことをすべてカバーした。

母は私が帰るときには手を握って泣いて、まるで「連れて帰ってくれ!」と
言っているようだった。
私は母に謝ってばかりで、帰宅しては泣いていた。

父が三男に連れられてこの施設を訪れたのもこの頃で、
父は「お前の思うようにはならん。でも施設がかわいそうならば、
金をだして誰か雇って家で面倒みてもらえばよい。誰かお手伝いを雇うか?」といい、
まるで、的外れな意見に情けなく思い、さらに、病気になった私は
もう役立たずのように言われた気がして、がっかりした。

つづく
施設ってこんな…
2012-05-17-Thu  CATEGORY: 介護と兄弟関係
母が特養に入所して、翌朝、朝食時間に訪問したら、
母はあまり食事も食べておらず、しかも口のまわりに
粉薬をベタッと付けていて、エプロンもドロドロになっている。

スタッフの人を見ると一人で10人くらいの利用者に
食事介助している。これでは、私が作成した母に関しての注意書きも
まったく役には立たない…。

私の顔を見て泣く母の口を拭いてあげて部屋に連れて帰り、
トイレに誘導した。お願いしていたリハビリパンツではなく、
テープ型のオムツのままで、これでは便器に座らせることが
できないのでしょうがなく、ベッドに移動して、
尿とりパッドを交換した。

どうやら、ここの施設長夫婦は、愛想良く「わかりました!」と言って
いたが、まったく、気にもとめていないことがわかった。残念だ。

もちろん、こんなにたくさんの入居者を少ないスタッフでやっているのだから
無理もないのだろうが、私には、乳母捨て山のように思えた。

後から聞いたが、この施設の評判はとても悪いようで、この夫婦が
適当に経営しているようだ。

私は「すぐにでも連れて帰りたい!」と思ってしまった。

つづく
特養施設の初日
2012-05-16-Wed  CATEGORY: 介護と兄弟関係
病院の救急車で送ってもらって、特養の施設に到着。

以前からエクセルで表作成して入院中も使用していた、
母の状況を説明したものがある。
それには失語症のこと、オムツのこと、入れ歯のこと、
投薬のこと、嗜好品や、食事方法などなど、話せない母のために
誰が介助しても様子が分かるようにと記載していた。

施設長とその妻の2人がこのホームの代表者で、この夫婦に
その書類を渡して、話せない母のために誰が介助しても
様子が分かるようにスタッフに読んでもらいたいと説明した。

話せないので、看護、介護、リハビリ、介助をくれぐれも
よろしくと何度もお願いしてから、契約書をかわし、
その後に部屋へ案内された。

ショートステイなので、個室を用意してもらっていた。
だが、カーテンは薄汚れていて、全然洗っていないようだし、
部屋の隅にはホコリもたまっている…。
ちょっと心配になりながらも、荷物をほどき、母に
「これからしばらくはここに滞在してね。私は毎日来るからね」と
話した。母は、かなり不安そうだった。

夕方、同階の食堂にて、夕食の介助をして、部屋に戻って歯ブラシ、
うがいを済ませ、オムツを交換してベッドに寝かし、
「明日も朝からくるからね。おやすみ。」と母に言う。
母は私の手を握ってしばらく離さなかった。何か嫌な予感がしたようだ。

私も施設に入所させることに後ろめたさもあり、なかなか帰宅できなかった。

つづく
複雑な涙の退院
2012-05-15-Tue  CATEGORY: 病院
自宅介護の場合はレンタル介護用品が利用できるが、
入院や施設入所の場合は返還しなければならない。

母が、自宅介護に戻らず施設に入ると決定した時点で、
私はすでにすべてのレンタル品を業者に返還して、
レンタルで使用していたものと全く同じ車いすを、
インターネットで格安のものを見つけて購入していた。

11月に倒れた私と一緒に入院した母だが、3月の春ようやく退院だ。

退院の日は、朝早くに購入した車いすを持参して病室へ行った。

いつものように目薬点眼、髪をとく。薬を飲み、朝食の介助後、
歯ブラシとうがい。今日は何回もトイレにいきたがり、
その都度、便が出ている。昼食をすませ、退院準備をした。

荷物をまとめ、入院費の清算など、退院のときはバタバタ忙しい。

昼一番に、母は看護師たちと涙の別れをした。
いつもは自宅に戻れるので喜びと感謝の涙だが、
今回は施設に行くので、感謝と、不安の混じった涙のようだった。

病院の救急車で入所する隣の区の施設まで送ってもらった。
最後まで親切な病院だった。

つづく
病院から施設への決断
2012-05-14-Mon  CATEGORY: 介護と兄弟関係
自宅介護については詳しく調べていたが、施設については
あまり実態を把握できていなかった。

介護老人のための施設は主に下記の2種類である。

●「特別養護老人ホーム」
 略して特養。身体や精神に障害などがあって、家庭での介護が難しい、
 65歳以上の高齢者が入所する施設。
 入所者にとっては生活の場であり、終の棲家となります。

●「介護老人保健施設」
 略して老健。マヒやけがの症状が安定した高齢者を、
 原則として3ヶ月(最長6ヶ月ほど)を限度に受け入れ、
 自宅での生活を可能にするために リハビリテーションを行う施設。
 家に帰すことを目的にしているところが、特養との大きな違い。
 しかし実際には、特養の空きが出るまで、特養代わりに使われていることが多い。

結局、三男が申し込んだのは特養3ヵ所、老健2ヵ所だった。

その申し込んでいたうちの1ヶ所、隣の区にある特養から、
正式入所ではなく、ショートステイで入所ならば受入可能と連絡があった。

入院してからすでに4ヶ月になろうとしていたので、
あまり選り好みはできない。とりあえず、私がその施設に視察に行った。

ショートステイなので連続は原則不可で、しかも隣の区なので
私が通うのにはどうかと悩んでいたら、説明する所長が、
「母のリハビリも可能で、原則は1ヶ月丸々は滞在できないが、
介護保険を使わずに実費を何日分か支払ってもらえれば
連続して利用してもかまわない」とのこと…。

結局、他に連絡もないので、ここで入所することに決めた。

このころ娘の卒業式があり、久しぶりに母のこと以外で
出かける自分がいた。 思えば母の介護しし始めてから
自分や娘のためにでかけることはまったくなく、酒もめったに飲まず
たばこも倒れて依頼一本も吸っていない。
母が施設に入れば少しは自分の時間も取り戻せるかも…と思いながら
平行バランスの悪い歩行でヨタヨタと電車に乗って卒業式に出た。

つづく
ようやく退院、だが母は…。
2012-05-13-Sun  CATEGORY: 病院
元の病院に戻って、さらに入院生活を続けている私と母は、
何の希望もないままに過ごしていた。

夕食時には三男嫁、長男嫁が介助にきてくれるので、
私は朝食、昼食時には、自分の点滴をころころ転がして母の病室へ行き、
食事介助をして、歯を磨いてうがいをさせ、薬を飲ませて、
テレビをつけてから、また自分の病室へ戻ることを繰り返していた。

看護師長に、母と同じ病室にしてもらえないかと頼んだが、
今でも病人がするべきことではないのに、ずっととなると、
私が療養できないので駄目だと言われた。

せめて母にリハビリをしてもらうように依頼し、
1Fのリハビリ室で歩行訓練をしてもらったが、以前に担当だった先生は
もう退職していて、別の先生では、残念ながらあまり成果は出なかった。
自宅での訪問リハビリでは、杖で歩くことまでできていたのに
すっかり自分で身体をまっすぐに保つ筋力がなくなっていた。

そんな入院生活をしながら年末年始も病室で母とひっそりと過ごした。

年が明けて1月中旬、私はめまいもなくなり、吐き気もおさまったことや、
時々左側によろけてしまうが、ゆっくりとほぼまっすぐ歩けるようになったことで、
母を残し私だけが退院した。

退院後も、もちろん毎日、私は病院に母の付き添いや介助で通った。

1月下旬に私は動脈瘤のカテーテル手術を受けるために脳外科に再入院した。
3つの動脈瘤のうち、2つにコイル手術をした。

脳外科入院中の1週間は、また三男嫁、長男嫁に母の介助を依頼していた。

この時、すでに母は2ヶ月以上入院している。本来は入院させてもらえない
症状なので、急いで入所できる施設をみつけなければならないが、
数カ所申し込みしているが、どこも空きの連絡がなかった。

この間も次男からは何の連絡もないし、長男も見舞いに来ず、長男嫁に
必要事項は伝言している。
元の病院に再度転院、うれしいニュース
2012-05-12-Sat  CATEGORY: 母子生活
元の病院に再度入院する前日、嬉しいニュースがあった。
娘が、受験していた市内の公立大学の商学部に推薦入学で合格したと、
伝えてくれたことだった。
脳外科の主治医も娘の受験のことは気にかけてくれていたので、
このことを伝えたらとても喜んでくれた。

翌日、元の病院に戻って母に会った。母は私の顔を見て声をあげて喜んでくれた。
そんな母に娘の大学合格を伝えると、泣いて喜んでいた。

この病院の内科部長も息子が同じ大学の医学部に在学しているらしく、
娘の入学を自分のことのように喜んでくれた。

看護師たちも次々と「おめでとう!よかったね~♪」と声を掛けてくれ、
まさか、こんな医療関係ばかりの人たちに自分の娘の入学を
祝ってもらえるとは思いもせず、その時は入院生活も悪くないと思ったほど、
数少ない良いニュースだった。

母が倒れてからずっと娘には負担をかけていたのでほっとした。

私の症状は、脳外科で受けたカテーテル検査の造影剤の影響なのか、
吐き気がまた続いてしまい、なかなか起きて歩くことができなかった。
でもこの病院にいれば母のそばに居られるので少しホッとしていた。

つづく
「もやもや病」、私だけ転院
2012-05-11-Fri  CATEGORY: 病院
主治医があれこれ検査してくれて、私の脳はどうやら「もやもや病」らしい。
生まれもって脳内の血管が足らず、毛細血管が発達してなんとか血流を
保っているらしい。 その毛細血管がレントゲンで見て煙がもやもやしたように
見えるので発見した日本人医師が「もやもや病」と名付けたらしい。

今までに頭痛、めまいがしたはずだと言われたがあまり記憶になかった。

45年以上こんな症状はなかったのだから、やっぱり母の介護や
父や兄たちの愚行に、相当のストレスがかかり、喫煙量も増え、
脳梗塞を引き起こしたようだった。

この入院以来、私はきっぱりと禁煙している。
ヘビースモーカーだった私だが、母のような障害者にはなりたくないので
怖くてそれ以来吸えなくなった。

現在入院している病院には脳外科がなく、主治医に紹介状を書いてもらって
近くの別の総合病院に転院することになった。

点滴をつづけているお陰で吐き気はおさまり、はじめは座れなかった身体も
自分で支え無しで座れるまで回復していたが、目はずっとグルグル回ったままだった。

1週間後、転院の日、エレベーター前で看護師と一緒に見送ってくれた母は、
とても不安そうな心配したような顔をしていた。
「検査が終わったらすぐに帰ってくるからね、待っててね。」と泣きながら伝えたら、
母も泣き出した。
この間の母の食事介助とかを、三男の妻三男嫁と長男の妻長男嫁に頼んでおいた。
だが、二人ともパートの合間に病院にくるので、あまり頼りにならなかった。

転院先の脳外科でカテーテルの造影剤投与の検査の結果、もやもや病の血流も
脳梗塞も今は落ち着いているが、動脈瘤が3つあるとの診断で、
いずれ手術をしたほうがよいと言われた。

この時点で、12月、手術は日をあらためて予約を入れ、年明けの
1月にすることになった。
手術までに少しでも脳梗塞の後遺症を治すことが大切とのことで、
この病院で約1週間、点滴を受けながら、まっすぐに歩くリハビリ訓練も受け、
その後は、母のことも気になるので元の病院に戻ることにした。

年明けの手術のときはまたこの病院に入院することになる。

つづく
何より財産が大事な父と仕事が大切な兄
2012-05-10-Thu  CATEGORY: 介護と兄弟関係
私が緊急入院してから、すでに1週間以上が経ち、
娘が学校の帰りに様子を見に来ていた。

私がまだ吐いて具合の悪いときに、ふらっと父がやってきて
苦しそうにしている私にいきなり「お前に預けている、わし名義の通帳を
戻してくれないと、もしお前がおかんのように口がきけんようになったら、
こまる…」と言った。

吐きながらも、父がこんなことしか話さないのか?!とがっかりした。
自分の娘の身体よりも自分の財産をまず心配していたのが情けなかった。
だが、確かにその財産がなければ私も母も路頭に迷う…。
複雑な心境だった。

夕方、娘が来たので、父の通帳の在処を伝えて病院にもってこさせた。
翌日、父に病院ですべて返した。

そもそも、父がうちに来て、次男の愚痴などを散々聞かせるから、
私はストレスが溜まってイライラして脳梗塞を起こしている。
なのに、何の詫びもなく、ほっとしたかのように通帳を持って帰る父には
がっかりだった。

その後、三男が見舞いにきたので、父の面倒を三男にみてもらうように
再度頼んだ。さらに、私の回復が遅くなりそうなので、
母のことも相談したが、あまり乗り気な様子ではなかった。

主治医に今後の母のことを聞かれたので、三男に直接話してもらうことにした。

三男は主治医に「そんなこと言っても、うちも仕事してるから母の面倒は無理です!」
と、怒ったように答える姿に腹がたった。

主治医は「なら、どこか施設に入るなり、そちらで決めて下さい。
もう、これ以上、妹さんだけに頼っても無理ですよ!!」と言い返してくれて
ちょっとスッキリした。

その後、三男は何ヶ所かの施設へ申し込む手続きを始めている。
手続きも平日しか受け付けないところもあり、仕事を抜けなければならないと
文句を病人の私に言いに来たが、「私は仕事することもできない!」と
言い返してやった。

つづく
私もそんな病気?!
2012-05-09-Wed  CATEGORY: 病院
前回の母の入院時の主治医は、インターンで別の部に変わっているので
今回からの主治医は、母も私も別の若手の先生になった。
インターンではなく、心臓治療に詳しい優しい男性の先生だ。
この先生が、これからずっと母が亡くなるまで主治医となる。

私と母の入院が続き、相変わらず吐いて、目をまわしている私であったが、
1週間ほど経って、その主治医より、私も脳梗塞であると聞かされた。

え?! 私も脳梗塞?! まさか…。絶句した。

梗塞を起こした場所は脳幹のあたりで、三半規管を司るところなので、
めまいや左に傾きが出たらしい。左手、左足に痺れがあり、
まっすぐに座ることもできずにいた。

まだ40代半ばで脳梗塞を起こすには他にも原因があるだろうから、
詳しくは脳外科のある病院へ転院して、検査したほうがいいと言われた。

部長の検診で私の症状を見過ごしたこともあって責任を感じているようで、
私が介護できるようになるか、母がどこかの施設に入れるようになるまで、
母はこの病院にとどまって入院していてかまわないと言ってくれた。

結果、母は言語リハも身体のリハビリも中断した形になり、
思うようなリハビリができなくなってしまったことが残念だったが、
この緊急事態にとにかく母を預かってくれるだけでもあり難かった。

兄や父は私がかつぎこまれたことを、何日も経ってから気づき、
かけつけてきたが、入院中の母の面倒は、最低限のことだけを
兄嫁にやらせていた。

つづく
親子で入院生活
2012-05-08-Tue  CATEGORY: 病院
私が倒れ、救急車で運ばれ、緊急入院を余儀なくされ、
意識が遠のいて、眠ってしまって…。

それから、どれくらい時間が経ったかはわからないが
目覚めてからは、まだ吐き気がして、そばにはケアマネージャーがいた。
心配そうに私を見ていたので、とりあえず会釈したが、
その後のことはわからないでいた。

タンカーで運ばれながらCT、MRI、心電図、すべての検査を済ませて、
私のベッドのまわりに「内科」「婦人科」「耳鼻科」の先生がいったい
何が原因か探るべく、話していたが、何を言っていたかはあまり記憶がない。
ところどころ「メニュエル病では?」とか「心臓疾患か?」とか聞こえていた。

看護師が「娘さんに連絡いれるので、携帯電話番号を教えてください」と言われ、
私は今朝、娘が空港へ見送りに行くと聞いていたから、
娘には今は連絡しないで欲しいと、かろうじて話した記憶はある。

1日中「吐いて眠って」をくりかえして、気が付けば娘がベッドの脇にいた。
どうやら、ケアマネージャーが娘の電話番号を病院に伝えたようだった。

私は娘に母のことを訪ねたら、看護師がちゃんと別の部屋で面倒みていると
言い、それで少しほっとした。

娘は「おばぁちゃんより自分の心配したほうがいいで!」と言っていた。

つづく
人が来る日でよかった
2012-05-07-Mon  CATEGORY: 介護と兄弟関係
私が倒れて動けないまま、時間だけが過ぎていた。

そう言えば今日は午前中に、訪問リハビリの先生がやってくる。

昼前にドアベルが鳴り、私は這って玄関まで行き、ドアのロックをはずして
倒れている私を見たリハビリの先生は驚いていたが、
話を出来る私はなんとか事情を説明して、ケアマネージャーに電話してもらった。

ケアマネージャーの指示でそのリハビリの先生が救急車を呼んでくれた。

保険証などのある場所を伝えて、準備してもらい、
救急車が来たらすぐに私と、車いすの母も一緒に母の入院していた病院へ連れて
行ってもらった。

まさか、私がタンカーで運ばれるなんて…。

今回、このリハビリの先生が私と母の命の恩人となった。
本当に、この日がだれか訪問してくる日でよかったと思った。

病院に入ったら、先日私の検診をした部長が驚いて
「2人とも入院!」と看護師に叫んで、みんなで手続きを手伝ってもらい、
母がいた病棟に上がった。

病棟の看護師たちも、母でなくて私が運ばれてきたことに驚いていた。

私は、ますます具合が悪くなり、吐き気が止まらず、
目はグルグル回転したままだった。
点滴、座薬、いろんなことをされていたが、段々意識が薄れて、
眠ってしまう。
でも薄れる意識のなかで、母はどうなるのかだけが心配だった。

つづく
とうとう自分が倒れた!
2012-05-06-Sun  CATEGORY: 介護と兄弟関係
母が退院して、いつもの自宅介護に戻って20日ほどが経っていた。

朝、いつものように母のオムツを取り替え、リハビリパンツをはかす。
目薬点眼、車いすに移動、朝食の準備をした。
どうも身体がだるい。母に飲み薬を投与して朝食をたべさせた。
娘も上がってきて一緒に食事をしていた。

娘は今日、高校でのオーストラリア留学生を空港まで見送るという話を
母に聞かせて、母もじっと聞いていた。

娘も学校へ行き、母の歯ブラシ、うがいを済ませ、
朝食の片づけをして、床掃除。

台所でたばこに火を付けて一口吸った瞬間にひどい頭痛がした。
すぐにたばこを消して様子をみた。

時間が経っても頭痛は止まず、やっぱり私は私はまっすぐに歩けない。
そのまま、ソファに倒れる。
母は私がまた談でやっていると思い、車いすに座って笑っている。

そのうち、私は吐き気がしてきて、横になったまま動けない。
私の様子がさすがに変だ、冗談ではないと気づいた母が車いすで声をあげながら
玄関のところまで動いてしまった。
私は、這って玄関まで行き母を戻し、なんとか母をベッドに移す。

私はすぐにベッドそばの母用の洗面器で少し吐く。
やっぱりこれはただ事ではないかもしれない…。

つづく
訪問入浴の日
2012-05-05-Sat  CATEGORY: 介護と兄弟関係
母のケイレンの入退院を終えて、普段の自宅介護の生活に戻っていた。

ある火曜日、夜中から何度もベッドの柵をたたいて音をたてて、
寝ている私を起こす母だった。
ちょうど2時間おきの 午前2時半、4時半、6時半。

入院中に看護師が決まって2時間おきにオムツチェックで母を起こすので
そのリズムが母にしみついていて、私を2時間おきに起こした。

私は何度も起こされて、朝はまた、あの変なめまいと頭痛がする。
起きても、やっぱりまっすぐ歩くことができずにいる。
回転いすで何回も回されてグルグル目がまわるような感じのめまいだった。
フラフラ歩く私を母は冗談でやっていると思い、笑っていた。

なんとか母の尿とりパッドを取り替えてまた寝てしまい、
8時にようやく起きてリハビリパンツに取り替えた。
自分の心配もあったが、母にケイレンが起きずに再入院がないことだけを願っていた。

微妙なめまいは続いているが朝からのいつものを終え、午後の訪問入浴の時間になった。

訪問入浴のスタッフはバスタブ持参で来るのでその場所を家具の移動で確保する。
着替えやタオルなども用意し、バスタブにお湯をはってスタート。
バスタブにゆっくり浸かって、寝たままで全身を洗ってもらえるので、
母はとても気持ちがいいようで、この訪問入浴が大好きだ。1

夕方に訪問入浴終了。やはり、私のめまいは続いているので少し心配だが、
夕方から夜にかけてのスケジュールをすべて終えてこの日を終えた。

自分がぐっすり眠れないのは辛いので、真剣にデイサービスなどの利用を考えていた。

つづく
入退院の繰り返しのストレス
2012-05-04-Fri  CATEGORY: 病院
また、入院となった母が救急車で運ばれて病室へ移動の際に
私はヒドイ頭痛とめまいがして、フラフラしてまっすぐ歩けなかった。

母は処置室に娘が付き添って入っていき、私はその部屋の前にある
長いすに座って頭痛が治まるのを待った。
何分経ったかはわからないが、ようやく落ち着いて歩けるようになり
私も救急処置室へ入った。

私を待っていた当直医は、母の現在血圧が相当高いので
様子も見たいので再入院させるとのこと。また入院準備だ。

入院後、主治医の話では、ケイレン止めの薬の量をもう少し増やしたほうが
いいかもしれないとのことだった。母はまた10日ほど入院した。

入退院の繰り返しもかなり疲れる。この入院中に私は
何度か話したことのある内科部長が外来の診察担当のときに、
このめまいについて受診した。
CTの画像にも何もなく、ストレスからの偏頭痛だろうという結果だった。
この受診が、私の今後の経過をさらに悪くすることになる。

つづく
またケイレン…!
2012-05-03-Thu  CATEGORY: 病院
突然のケイレンから入院、退院して、10日ほど経った日曜日だった。
朝、いつもの時間に尿とりパッドを取り替え、リハビリパンツをはかせて、
私は朝食の準備をしていた。
その最中にまた母が全身ケイレンを起こしていることに気づき、
前回で作成した緊急シート(対処方法や、連絡先、持ち物リストなど記入したもの)
を見ながら対処し、救急車を呼ぶ。

一度経験したのでちょっとは落ち着いて対処できたが、
やはり、何かメモを見ながらのほうが手順よく動ける。
あわてないほうがおかしい。
緊急シートを作っておいてよかった。

待っている間にオムツをチェックしたら、やはり便が出ている。
ケイレンを起こしたら体内の酸素が不足するので便が出やすいみたいだ。
リハビリパンツから再度オムツに交換して、病院へ。

今回は日曜日だったので娘も付き添ってくれた。

つづく
入院中の訪問歯科検診
2012-05-02-Wed  CATEGORY: 介護と兄弟関係
母のケイレンでの入院は2週間ほどだったが、
入院中はまた朝から夜まで私が以前のように付き添っている。

自宅介護にときに母の歯の検診を訪問で受けていたのだが、
今回の入院途中、1週間ほどたった日に、今週のその予定だった日は
依頼していた「部分入れ歯(上下)」を持ってきてくれることに気づき、
主治医にそのことを話して、外出許可をもらい、昼ににいったん自宅へ
車いすを押して歩いてもどることにした。

午後に自宅にて訪問歯科受診。母の歯はすでに虫歯でボロボロで、
何週もかかって治療を続けていて、上は右側、下は左側が抜けて歯のない状態で、
そのない部分に差し歯をすることでかみ合わせをよくするのに
部分入れ歯をつくってもらっていた。

ぴったりと上下にブリッジではまり、かみ合わせもよさそうだ。
今後はこの差し歯を夜にはずして消毒してまた朝にはめるという作業が増える。
消毒剤も購入しなくてはならない。

先生に実は今は入院中で一時帰宅したと話、来週は退院している予定であると
伝えた。
来週かみ合わせの具合をもう一度見にきてくれるとのことで、歯科終了。

私と母は支度をして夕方に病院に戻った。
夕食を介助していつも通りに、私は帰宅した。

つづく
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