バツイチ子持ちの私、母の介護、父との確執、不義理な兄たちとの遺産相続争い、成人する娘へのけじめ、唯一の癒しとなる愛猫のお話です。創作ではありません。
そこに愛はありますか?…突然の介護から…
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やっと終わるこのお話…。
2012-07-30-Mon  CATEGORY: 介護と兄弟関係
日本の裁判では、「相続争い」はあくまで相続のことで、
その家族がどれだけその亡くなった親に孝行したかは
争点として扱ってくれないことを知り、ましてや
私が「身上後見人」としてすでに少ないが報酬を取ったことを
充分とするとのことだった。

前例で介護をしたものが少し遺留分として多く受け取るものも
その家族がそれを認めた上での話で、
こうやって兄たちが「介護」に関して何の感謝もしていなければ
それは争点としては認められないとのことだった。

調停員も裁判官も所詮、自分が「介護」をしたり、
家族の中で誰かが何度も何度も入退院を繰り返す度に
しなければならない事などは知るよしもない。
こんな人たちにいくら訴えてもどうにもならないのが
途中からよく見えてきた。

もうどうでもよくなった私は、一刻も早く片付けたくて
決着した。

もう二度とこの兄たちの顔を見たくない。
今後、この人たちがどうなろうと私にはまったく関係ないと
言い切れることだけが、私の利点となった。

やっと、終わりを迎えたのだと思った。

受け取った土地を売却したら、その翌年に
信じられないほどの金額の税金やら、
健康保険や住民税などの追徴がやってきて、
現金を取らなかった優しい私に
日本の厳しい現実が追い打ちをしてきた。

それから、もう2年半が過ぎて今を迎えている。

「ゆき」は5歳、「さき」は3歳になった。

私は、相変わらず、持病の「もやもや病」「動脈瘤」、
脳梗塞の後遺症の「軽い痺れ」などとボチボチ付き合いながら
細々と暮らしている。

すっかり人間嫌いになった、頑固な「おばはん」である。

こうやって綴ることにしたのは、自分の兄たちのひどさや
日本の弁護士、裁判、介護システムなどのいい加減さを
少しでも、これからそんなことになってしまう人たちの参考になればと
思ってのことだったが、考えてみればこんな酷い兄たちを持った
家族はそうそう、居ないだろうと思っている。

しばらく続けてきたこのブログに、おつきあい下さったかたが
居たのなら、心よりお礼を言いたい。

「貴重な時間を割いて読んで下さってありがとうございました!」

これ、本になって、まさかの印税暮らしでちょっとは楽できないかな~?(爆)

猫たちのブログは続けているのでよろしければそちらを
おつきあい下さい♪

終わり
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吐き気がするほどひどい兄たち
2012-07-29-Sun  CATEGORY: 遺産相続争い
母の遺産相続争いで、裁判所での調停は、夏からスタートして
年を越し、半年が過ぎて冬になっていた。

いくら話し合っても、私の母にたいする介護に関する
遺留分は、心ない長男、次男にはまったく論外だったようで
とにかく残っている現金をいかにたくさん自分が取るかで
必死だった。

次男は調停員に「大事な母親の葬儀に来るなと言われ
行きたいと言う親友の出席までかたくなに拒否した。」と
申し立て、それに関してすべてを知っている長男も次男を
後押しして、自分が葬儀に出席するように説得しにいったことなど
まるで忘れているかのようで、呆れるしかなかった。

そんな虚偽を並び立ててまで金が欲しいのかと思ったら
本当に哀れな人たちに見えた。

両親が住んでいた家と土地が残っているが、
「土地はいらない、現金のみ取りたい」とわがままを言い、
調停員が「では土地は残していずれまた3人で購入したい人が
出てきたときに話し合えば?」と提案され、
私はこの非道な兄たちとまた会う機会を設けるのは絶対に嫌だったので
しょうがなく私がその土地をとった。

すべての結果がわがままで嘘つきの兄たちの思うように
調停されていくのがあまりに悲しかった。
絶対に日本の相続に関するやりかたは間違っている。
介護したものが優先されない制度が不思議だった。

つづく
我が家の新しい家族
2012-07-28-Sat  CATEGORY: 母子生活
裁判で調停争いが夏からスタートして、いつも嫌な気持ちだったが
そんな中、お向かいのMさんから、「もう1匹、猫を飼いませんか?」
と声をかけられた。

話を聞くと、ソマリばかりを飼っている人が最後に産まれた子猫の
飼い主を探しているのだが、なるべく兄妹を引き離したくないので
Mさんのところと我が家が向かい通しと言うこともあって
我が家にも1匹を引き取ることにした。

介護で献身的だった猫「ゆき」に妹猫「さき」、
私と猫2匹の生活が新たにスタートした。

嫌な人間ばかりの中で、猫2匹が私のとても大切な家族となり、
Mさんは、唯一心が許せると友人となった。

つづく
次男嫁のサイコぶり炸裂!
2012-07-27-Fri  CATEGORY: 遺産相続争い
これから、裁判で決着をつけなければならないという
気が重い中、母が居た特養の施設長から電話があり、
私たちが母の告別式をしていた日に、次男嫁が施設を訪問して、
施設長あてに「母が死んで身上後見人が解任されたんだから、
もう代理人署名はいらない。だからカルテと面会名簿のすべてを
私に情報開示しろ。」と言いに来たとのこと…。

葬式にも現れないのか?と思っていたら、なんと、
そんな事をしていたのか?!

ここまでくると、精神を病んでいるとしか思えない…。

だが、私ももう母が亡くなったので、施設長には
自分で処理してくれと、電話できっぱりと断った。
そもそも最後は母親を無理やり追い出した形の施設だったから、
私の兄の嫁とは言え、あくまで他人で関係ないと突っぱねた。

施設長は、結局、後日に施設お抱えの弁護士と相談して、
「個人情報も多々含まれるので、家族全員の同意がなければできない」
との文書を、次男嫁宛ではなく、次男宛に送ったと聞いている。
そのことも、後からそのお抱えの弁護士から連絡がきたから
知っているだけで、その後、その施設長からは何も連絡はない。

でも、なぜこんな非情な次男嫁に、施設も弁護士もふりまわされているのか
訳がわからない。 なんでも言いたいもの勝ち、やりたいもの勝ちの
不条理な日本の甘い現状が見える。

つづく
成年後見人は弁護士の特権
2012-07-26-Thu  CATEGORY: 遺産相続争い
母が春に亡くなり、その歳の夏から、裁判所で相続について
長男、次男と私の3人での争いがスタートしている。

その春から夏にかけては、母の財産後見人であった弁護士と
母が亡くなった時点で母の財産に関してのすべての権利を
一旦、私に書類すべてを戻してその弁護士は任務を終了している。

その引き継ぎのときに、この弁護士に、財産後見人として
いくらの報酬があるのか知らないが、ほとんどの明細は
私が作成して、この弁護士は裁判所にまとめたものを報告するだけの
簡単な仕事で、一度も母の見舞いにも介護の様子も見に来ていない。
最後の通夜、葬式に出席しただけである。

そんなことにやや引け目を感じたのか、がんばった私に
「身上後見人として裁判所に報酬を申し立てれば、いくらか
母親の財産から裁判所からの命令で受け取れるはずで、
それに値するぐらい一人でがんばっているから、申し立てれば
どうか?」とアドバイスをもらった。

私は、そんなことができるのかと思い、これから相続の調停で
どうなるかわからないから、それはそれで申し立てをすることにした。

申し立てをしてから、しばらくして、その報酬の決定通知書が
届いた。
それを見て、私は唖然とした。

6年間、自分の仕事もままならない状態で、母の介護をやってきて
報酬金額はたったの60万円だった。

財産後見人の弁護士は簡単な事務処理だけで、数百万の報酬を取っている。

その決定理由は「家族だから、これぐらい」ということらしい。

6年間で60万円、1年間で10万円、1ヶ月にすると、1万円にもならない。
この弁護士との差が「家族だから」というシステムに開いた口がふさがらなかった。

こんな嫌な思いをするなら、申し立てをしなければよかったと後悔した。

つづく
兄とは名ばかり…
2012-07-25-Wed  CATEGORY: 遺産相続争い
長男は、ややこしいことはすべて嫁まかせで
何にも長男らしく母を看取らなかったくせに
母の財産だけはガッツリと取ろうしている。

次男は母が倒れて以来、まったく母の介護に関しては
無視しつづけて、なのに嫁は施設に嫌がらせをしたり
夫婦で、母の死に目にも通夜にも葬式にも姿を現していないが
母の相続だけは待ってましたとばかりに飛びついてくる。

三男は、国税局に勤めているので体裁ばかりを気にして
でもサッサと父の遺産を父の死に間際にゴッソリと取り込み
それが争点になった相続争いで母の面倒を見ている私をも
だまして、さっさと母の相続争いは放棄してしまう。

なんでこんな兄たちばかりなんだろう…。

ため息しか出てこない。

私は長年にわたり母の介護をしたことで、定職にも就けず
50過ぎてからの再就職には何の期待も出来ない。
これからの生活が自分の病気と向き合いながら不安しかないのに
そんなことはまったくお構いなしの最悪な三兄弟の兄たちである。

私は前世でよっぽど何か悪いことでもしたのか?と言うくらい
薄情な兄たちの尻ぬぐいばかりの生活だ…。
私はすっかり人間嫌いになっていた。

こんな中、これから最後の母の遺産相続で、裁判で闘わなければ
ならない…。

つづく



三男の裏切り
2012-07-24-Tue  CATEGORY: 遺産相続争い
遺骨は、まだ4月末まで借りることになってしまっていた
母の介護部屋を片づけて、祭壇をつくり、そこに祭って、
訪問サービスの人たちがいつでもお線香をあげに来られるように
しておいた。

葬儀会場にこれなかった人たちが、やはり仕事の合間に
母の好きだったものをお供えとして持参して来てくれた。

平成4月末に母の部屋で四十九日法要も済ませた。
次男夫婦はもちろんだが、長男も参列しなかった。
参列者は私と三男夫婦、長男嫁の4人だった。

その後、三男の運転する車に同乗し、4人全員で一心寺に納骨をして、
三男が母の故郷の墓にも分骨すると申し出があったので、
それはお願いして、遺骨を渡した。
そもそも、うちの両親はどちらも同郷であり、兄たちもみんな
広島生まれである。 私だけが大阪で生まれている。

なので、広島に関することは、すべて兄たちにまかせるだけだった。

四十九日法要、納骨が終わり、ホッとはしたが、でも
まだ後処理(遺産相続など)があるので、これからも
最低、三男だけは協力してもらえると思っていた。

しかし、部屋も片付き、すべての役所関係の処理も終わって
落ち着いてころに、三男に電話で相続のことをどうするか尋ねたら
「既に放棄した」と言われ唖然とした。

父の相続のときに約束した「母の時の自分の分をおまえに譲る」と
言って、納得していない私を諦めさせた三男が、国税局に勤めていながら
こんなにもあっさりと私との約束を破ってしまうのかとガッカリだった。

金の強欲な長男、次男を相手に、三男と協力できると思っていた私は
絶対に不利である。

このことを父の相続のときにお願いした同じ弁護士と相談して、
母の相続に関して、私から申し立てを起こすことにした。

裁判所を交えずに長男、次男と話し合いができるとは思わなかったからである。

つづく
本当に死を悼む気持ち
2012-07-23-Mon  CATEGORY: 介護と兄弟関係
あいかわらず、次男夫婦からは何も連絡がないまま、
通夜・告別式の準備を進めていた。

母が倒れてからこの6年間、結局最後に母のことを
よく理解している人たちを限定して通夜や告別式のことを知らせるなら
結局のところは、母を介護した人たちと言うことになる。

仕事の都合もあるだろうから、何時でもこの葬儀会場に
来てくれたら、別室で布団に寝ているかのように安置されている母を
見ていただけると連絡をいれた。

すると、通夜の前に、親身になって母を介護してくれた人たち
(ケアマネージャーや訪問介護、看護の人たち、
お向かいのMさんご夫婦などなど…)が、みんなが
仕事の合間に時間を見て母の顔を見に来てくれた。

来て下さった方達は、型破りだが、決まった通夜の時間や
告別式にきても母の顔が見られるわけではないので、
このほうがお別れが言えてよかったと言ってくれた。

長男嫁もヘルパーの仕事をしているので、
通夜の前や後、葬儀の前や後も仕事に行っている様子であった。

家族だけで執り行う旨を仕事先や知人には知らせていたが、
財産後見人の弁護士、次男の親友で次男との連絡を取ってくれたAさんは
参列してくれた。
あとは長男、三男、私と私の娘だけで進めたが、
三男の仕事がらみの国税局の人は密葬と連絡いれているにもかかわらず
何人かはやってきて、三男に挨拶をしていた。

父のときのようにたくさん国税局と名前の入った弔電も届いていたようだが、
絶対に式の最中に読み上げないように進行役の人にお願いした。

お棺を最後に閉じるときには、なぜか私は涙も出なかった。
達成感と喪失感が同時にやってきて、複雑な心境だった。

つづく
次男夫婦は奇行炸裂
2012-07-22-Sun  CATEGORY: 介護と兄弟関係
私は一度家に帰って、あれやこれや準備をし、
そんな中、この日程を、死に目にも立ち会わなかったが、
一応息子である次男にはファックスしようとした。
だが、電話はつながるがそのまま切れてしまい、
何度電話をいれてもが応答なしだった。

困って、次男の親友(私も学生のときにお世話になった人)に
電話をいれて、母が亡くなったこと、次男が死に目に会わずに
帰ってしまったこと、通夜、葬式の日程を連絡できずにいることを話し、
その親友から伝えてもらうようにお願いした。

しばらくしてその親友から、私に電話があり、
次男が「俺は行かない」と返事されたとのことだった。
長男も次男にその後で電話で話したらしいが、結局、
次男はまったく通夜も告別式も出るつもりはないようだった。
もちろん、生きている母にもまったく興味がなく、
その施設に嫌がらせをして恐喝してるが、死んだ母などは
まったく興味があるわけがないという感じだった。

その連絡を取ってくれた親友は、自分はどちらも行くと言ってくれたが
家族葬にしたいので気持ちだけで…とお断りをした。

つづく
母が逝った…
2012-07-21-Sat  CATEGORY: 介護と兄弟関係
日付が変わって翌日の午前1時36分、急に呼吸がみだれて
一度大きく反り返った後に、最後は眠るように息を引き取った。

私は、ぼーっとしていたが、つい一言出た言葉が
「終わったな…」だった。
6年間、母のこと、自分の病気、父の死、父の遺産相続争い、
不義理な兄やサイコな兄嫁…、すべてが終わったように思えた。
ずっと背負っていたものがとれたような気がした。
母は、最後に長男夫婦、三男夫婦、そして私に看取られて
逝ってしまった。

主治医も夜中だったが、すぐに病院に駆けつけてくれて、
身体にはいっているチューブ類をすべて取り除き、
死亡診断書を書いてくれていた。

待っている間に、私は一人暮らしをしている自分の娘に
「おばぁちゃんが亡くなったよ」とメールを入れた。

午前3時、やっと葬儀屋に連絡して、亡き母を引き取りにきてもらう。
葬儀は父の時と同じ葬儀会場でするのがいいだろうと思っていた。

三男が長男に、母の葬儀は家族だけの密葬にしたいので、世間体もある
兄たちが喪主をするよりもずっと寄り添っていた私が喪主をするのが
一番いいだろうと話してくれた。そのまま各人が自分の車で会場へ。
途中、長男は道に迷ったと言い、結局会場には来なかった。

自分が喪主でないので、責任はないと思ったのか、
それっきり葬儀に関する打ち合わせには現れなかった。

次男もひどいが、長男も似たり寄ったりだと思った。

私が入っている冠婚葬祭の会員権(すでに会員費用43万円は支払い済み)を
使って母の葬儀をすることにした。
その他諸々の追加費用を合わせるとそれでも100万弱になる計算だった。
家族だけで密葬といいながらも、こんなに費用がかかるのかと思った。

すべての香典、花、弔電なども辞退することにした。
父の葬儀のときのようなややこしいことにはしたくなかった。
間違っても、延々つづく「国税局からの弔電」読みはゴメンだと思っていた。

通夜は翌日、告別式は翌々日と決めた。

つづく
もうだめなのか…
2012-07-20-Fri  CATEGORY: 病院
翌日、私は午前6時にまた病院に戻った。
昨日と変わらない様子だが、昨日のように、何を言っても
問いかけには反応を示してくれない。
もう意識はないようだ。

午後、訪問看護の看護師らが見舞いに来てくれた。
集中治療室に入っているのを見て驚いていた。
母の耳元で「おかあさ~ん、相撲が始まるよ~。帰ろうよ~」と
声をかけてくれた。反応はなかった。

私は朝から、メソメソと泣いていたが、この訪問看護師の
声かけに、思わず涙がボロボロと出た。

母の延命措置はしないように主治医とは話していたので、
人工呼吸器はつけていない。
酸素マスクだけで、自力で呼吸をしている。
その姿はとてもけなげに見えて、私はずっと泣き続けていた。
もうダメか…と思った。

長男夫婦、三男夫婦にも連絡をいれ、
みんな駆けつけてくれて、そばでみんなで無言で見守った。

まるっきり、尿が出ていたい母なので、主治医も看護師も
もうダメだと思っているようだが、何も語らずずっと酸素や
心拍数のチェックだけを続けていた。

午後9時、もう危ない。長男はまったく母を気にかけない次男と
さすがにこの時には連絡をとりあっているようだった。
長男に電話ではこの状況は伝わらないだろうから、
直接、仲のいい長男が次男を呼びに行くことになった。
いくら見舞いに来なかったとはいえ、自分の母親の最後は見届けたいだろうと
思ったからである。

午後10時、長男に連れられて次男がくるが、危篤の母をちらっと見て、
「言いたいことはあるけど、もうええ!」と怒ってそのまま帰ってしまった。
意味がわからなかったが、どうやら母の最後は看取るつもりはないらしい。
誰も、次男を追いかけたりはしなかった。次男嫁はまったく来ていない。

つづく
再び母、危篤…
2012-07-19-Thu  CATEGORY: 病院
元気になった母を見て、すっかり安心しきっていた数日後、
夕食介助を済ませたら少し呼吸が苦しそうにしているのに気づき、
やや嫌な予感を持ちながらも一度私は帰宅した。

その夜中の3時半に看護師から電話で起こされた。
酸素の数値がかなり悪く、また集中治療室に移したとのこと、
すぐに駆けつけようとしたが、看護師が今はまだ様子を見ているので、
朝に来てくださいと言われ、結局、私はそれから眠ることもできずに、
朝6時に病院へ行った。

母はまだ私が話しかけたら軽くうなずいて答えてくれた。
だが、目を開けることもなく、酸素マスクの酸素を必死で
呼吸しているだけだった。

呼吸を焦ってしている様子だったので「ゆっくり~」と話すと
深呼吸をしたりしてくれた。
そんな反応があり意識はまだあり、きっと大丈夫だろうと思った。
でも念のため、三男夫婦や長男嫁に連絡を入れた。

夕方に、三男夫婦、長男嫁のいる集中治療室で、私が母の耳元で
「みんなそばに居るよ~。でも次男夫婦はおらんでぇ~」と
言うと、長男が「次男嫁を呼ぶか?」と言った。
私はすぐに母の耳元で「次男嫁だけはイヤやんな~?」とふざけて言うと
母がすぐに大きく頭を縦にうなずいた!
「うわぁ!返事した!!よっぽどイヤなんやな~!」と私が言い、
これをみて、思わずみんなで笑ってしまった。
意識不明になっていても、サイコな嫁さんはイヤらしい。
みんながめいめい、「お母さん、大丈夫や、わかってる~♪」と
その場が少しなごんだ。

夜遅く午後8時になり、この前のように持ち直すかも
しれないので一度帰ってはと看護師に言われ、
全員、一旦は帰って少し眠ることにした。

つづく
母が危篤…奇跡の回復
2012-07-18-Wed  CATEGORY: 病院
翌日、私が病院を訪れると、母が集中治療室に入っていて、
あれから尿が全然出ていないのでと言われた。

明日までに違う利尿剤を投与して、様子を見ますと言われた。

すぐに三男夫婦に連絡を入れ、私はずっと母のそばに居た。
夜には三男夫婦やケアマネージャーの見舞いもあった。
その日は小康状態だったのでとりあえず利尿剤が効いてくれることを
願って私も帰宅することにした。
看護師も何かあったらすぐに連絡してくれると言ってくれた。
どこかで覚悟はしているが、でもなかなか母から離れられないでいた。

翌日、看護師から連絡もなかったのでいてもたってもいられず、
午後に病院へ行くと、尿が出たらしく、母は回復していて、
集中治療室から一般病棟に移動していた。

私は全身の力が抜けて、ほっとして座り込んでいた。

主治医も薬が効いてくれてよかったと喜んでくれた。
母もにっこりと私の顔をみて笑い、「あんた、死にかけてたでぇ~!」と
私が話すと声を上げて笑っていた。
この母の生命力にはいつも感心する。

その後1週間ほど調子のよい状態が続き、3月に入りペグからの
注入食も再開した。
いつ退院するかを主治医と相談しようと言われ、また自宅介護の
準備をするので後日連絡すると伝えた。

つづく
自分の40代の終わり
2012-07-17-Tue  CATEGORY: 介護と兄弟関係
自宅介護の生活をはじめて、もうすぐ1年になろうとしていた。

酸素マスク、痰の吸引など、医療器具を使用しての介護も
すっかり板に付いてきた私は、変にブランクがあって訪問看護になった人や
ベテランのヘルパーさんよりも、はるかに上手くこなせていた。

猫の「ゆき」もすっかり母のお気に入りとなり、母のベッドのまわりを
うろうろする姿や、テレビの前で母を見守る姿に、母はいつも笑っていて、
アニマルセラピーの効果絶大だった。

向かいのMさんが、夜11時の1日の最後の介護時間に
よく付き添ってくれていた。
翌朝、私はまた5時に母のところへ行くが、私の玄関ドアの音や
鍵につけている鈴の音がしないと、Mさんの旦那さんも
出勤前で起きていて、Mさんに「お向かいは寝坊してないか?!」と
いつも気にかけてくれていたらしい。

皮肉なもので、「遠い親戚より近くの他人」とは良く言ったものだと
思った。お向かいの夫婦の親切がとても身にしみた。

そんなことをしながら、またペグ交換の時期となり、母は検査も兼ねて
再入院した。
この入院中は、すべてうまく運び、2週間で問題なく退院したので、
その間は、私には半年ぶりの休暇となった。

2月に入り、私は50歳の誕生日を迎えた。
40代半ばから母の介護と自分の病気との共存生活になり、
なんの良い思い出もなく40代を終え、
とうとう50代になってしまった、ため息が出た。
介護生活をはじめて6年になろうとしていた。

身内の愛情をこれっぽっちも感じないままに
ずっとやってきて、これがいつまで続くのだろうと
不安な日々だった。

それから半月後、ある日曜日、いつもと同じように母の部屋で
朝の介護を済ませたが、痰の吸引をしてもまだ呼吸がゼイゼイ言うのが
気になっていた。下痢もしていた。
少し気になりながらも一度自分の部屋に戻って他の用事をしていたら
まもなく三男夫婦が母を見舞いにきていて、母が吐いたと電話があり、
私もあわてて降りて、入院するかどうかを相談していた。

日曜日なので午後2時に長男嫁も来て、みんなで相談し、
休みの日のうちに搬送するほうが安心だと言うことで、荷物をまとめ、
救急車を呼んでいつもの病院に搬送してもらい即入院した。

具合は悪いはずなのだが、久しぶりに私以外にも兄夫婦たちと合わせて
みんなに囲まれて母はうれしそうにしていた。

つづく
次男嫁の奇行と酸素ボンベ
2012-07-16-Mon  CATEGORY: 介護と兄弟関係
肺炎で緊急入院となり、1ヶ月が過ぎようとしていたころ、
偶然以前にいた特養の施設長とコンビニの前で会い、挨拶をかわした。
施設長は私の顔を見るなり「先日また次男嫁さんが来はってね、
私は不在やってんけど、施設長を出せって怒鳴って帰ったらしいです」
と言われた。

どうも前回から半年ほど経っているので、次男嫁は季節の変わり目になると
いつも何か連絡をしているようだと言ってため息をついていた。

弁護士にはまだ相談していないとも言っていた。
私はすでにこの変人「次男嫁」とは関わりたくなく、
とにかく親族として謝るしか返事のしようがなかった。

その1週間後、母は1ヶ月ぶりに退院して自宅に戻った。

しかし今回の退院時には酸素ボンベを業者に手配してもらって、
常に酸素ボンベを着用することになってしまった。

やはり、徐々に体力が落ちてきていて、薬も増え、
器具も増えることが悲しかった。
だが、酸素ボンベをしているお陰で呼吸も安定し、
ここから年明けまで無事に過ごすことができ、
ペグ交換入院までの3ヶ月は自宅で穏やかに介護ができた。

つづく

定期検診の入院と緊急入院
2012-07-15-Sun  CATEGORY: 病院
母の体調も大きくくずれることもなく、介護生活もみんなが慣れてスムーズに
日々が流れ、再退院から3ヶ月が過ぎた。

しかしまた半年ごとのペグ交換手術をする時期になっていたので、
主治医と面談して、7月中旬に入院した。
今回、検査入院で心配がないことが、私にはとっては
少しゆっくり眠れる休暇のようにも思えた。

もちろん入院中はほぼ毎日通って介助している。
検査の結果、さして悪化しているところもなく、
7月末に無事退院した。

半月ではあったが、私も少し体力気力共に回復していた。

しかし、喜んでいるのもつかの間…、忙しい自宅介護を続けていたが、
2ヶ月後に吸引しても呼吸が荒く、苦しそうにして、
訪問診療の医師に診察してもらい、たぶんまた肺炎になっているのだろうと言われ、
9月中旬、再入院した。

この日は母の87歳の誕生日だった。

いったい今までに何回、入退院を繰り返しているだろう。
もう入院荷物のパッキングのプロになってしまった。

嚥下能力の低下にともない、痰を吸引していても少しずつ誤嚥しているから、
肺炎になってしまうらしい。

今回は母がとても呼吸が苦しそうだったので救急車を呼んで
病院まで搬送してもらった。

救急車を呼んだのは私が倒れて入院したとき以来である。

つづく
介護猫「ゆき」
2012-07-14-Sat  CATEGORY: 介護と兄弟関係
この2日間で記載した私の仕事と介護をしながらの
あわただしい毎日の中、春から夏へと時が流れていた。

7月初めに「ゆき」の誕生日として、1歳になり、
やっとワクチンも接種できた。

「ゆき」は私が1日のうち、何回も母の部屋と私の部屋を
出入りする度に、私に付き添って一緒にいるようになった。

ゆき9ヶ月1
母の部屋での「ゆき」

母も「ゆき」がやってくるのを楽しみにし、
「ゆき」もしっかりと母が動けない病人であることを認識し
おとなしく母のそばに座り、私が介護する間は
少し離れて、それを見守ってくれていた。

訪問サービスの人たちにも人気となり、何人もの人たちに
癒しパワーを放っていた。

殺伐とした兄やその家族、ちっとも手伝わずに自分の青春のみを
謳歌していた娘、責任問題ばかりを気にする施設の人たち…

そんな人たちとばかり接してきてすっかり人間不信になった私は
「ゆき」にどれだけ救われたことだろう。
ゆき11ヶ月1


つづく
週末の自宅介護のスケジュール
2012-07-13-Fri  CATEGORY: 介護と兄弟関係
昨日の記事につづき、私のスケジュールである。

【土曜日】
この日も仕事は休みである。だが朝はいつもと同じ朝5時半には母の部屋へ。
朝の介護をすべて済ませたら、自分の部屋にもどって掃除、洗濯など。
この間の午前9時半ごろ、訪問介護のヘルパーがオムツ交換をしてから、
母の部屋の掃除をしてくれる。
午前11時半、いつも昼休みにやっている昼の介護を済ませ、
私は自分の昼食を済ませたら、車でホームセンターなど遠いが安いので
消耗品などをまとめて購入しに行く。
この間の午後2時半、訪問看護の看護師がオムツチェック、バイタルチェック、
痰の吸引をしてくれる。
午後4時半、仕事を終えて私が再度母の部屋へ入り、訪問看護の連絡帳に目をとおす。
オムツチェック、痰の吸引をしてラジオかテレビか母のその時の様子で決めて、
母が元気ならば車いすに座らせる。
午後5時半、三男嫁が母の部屋へ。夕食ほかを介護して1時間ほどで帰る。
私は三男嫁に任せて自分の部屋へもどる。
この時間は私も仮眠することが多い。
後9時に訪問介護のヘルパーがいつも通り来てくれるので必要なときは
私も母の部屋に降りて立ち会う。
その後自分の入浴を済ませて私は1日最後の母の介護をしに母の部屋へ。
オムツ交換(摘便)、痰の吸引、顔、口腔内の清拭を済ませて、
母におやすみの挨拶をして、母も手をあげて答えてくれる。
ラジオを切って電気を消して、ドアを閉めて自分の部屋にもどり、就寝する。

【日曜日】
仕事はもう1日休みである。朝はいつもと同じ朝5時半には母の部屋へ。
朝の介護をすべて済ませたら、自分の部屋に戻って出来ていない用事を済ませる。
途中、吸引をしに母の部屋に降りるが、たいがい母はよく眠っているので、
せずにまたもどることが多い。
午前11時半、いつも昼休みにやっている昼の介護を済ませ、
私は自分の昼食を済ませる。
午後2時半、長男嫁が、日曜日はヘルパーの仕事が休みなので、
母の介護にきてくれる。連絡事項をいつもメモで置いておく。
パジャマの交換と身体の清拭もお願いしている。
三男嫁がいつもやっていること、午後9時の訪問ヘルパーがやってくれていることを
してもらっている。
夕方に一度、私が痰の吸引をしに行く。
痰の吸引は看護師か私しかできない。
その後自分の入浴を済ませて私は1日最後の母の介護をしに母の部屋へ。
オムツ交換(摘便)、痰の吸引、顔、口腔内の清拭を済ませて、
母におやすみの挨拶をして、母も手をあげて答えてくれる。
ラジオを切って電気を消して、ドアを閉めて自分の部屋にもどり、就寝する。

これが1週間の自宅介護の主な内容である。

我ながら私は年中無休である。母が倒れてから、旅行はもちろん、
日帰りの外出などもしていない。
娘が成人してやっと自分の時間ができる時期だったのだが、
結局は介護で40代を終えてしまった。

つづく
介護の集大成
2012-07-12-Thu  CATEGORY: 介護と兄弟関係
母が倒れて何年も介護を続けていた私は、看護師、介護士
医師、ケアマネージャーなど、すべての人が驚くほど
やりこなしていた。

この最後の自宅介護の時は、まさに今まで培ってきた技の
集大成のようだった。

私の1週間のスケジュールを振り返ると…

【月・火・水・金曜日】
朝5時に起きて顔をあらって着替え5時半に母の部屋へ
ラジオをつけて、母に挨拶をし、母も手をあげて答えてくれる。
オムツ交換(摘便)、痰の吸引、検温、血圧測定、顔と口腔内清拭、
髪をとかし、ペグからの薬と朝食の注入、ペグまわりのガーゼの交換、
カテーテルチップ(注入用の注射器)ペグチューブの洗浄、
チェック表への記入と済ませ、自分の部屋にもどる。
仕事の支度と朝食をして8時までに仕事へ。
仕事をしている間に訪問看護の看護師がオムツチェック、バイタルチェック、
痰の吸引をしてくれる。
午前11時半、仕事場から昼休みに母の部屋へ。
訪問看護の人の連絡帳をチェックして、オムツ交換(摘便)、痰の吸引、
ペグからの薬と昼食の注入、ペグまわりのガーゼの交換、
カテチップとペグチューブの洗浄、チェック表への記入と済ませ、自分の部屋へ。
軽く自分の昼食を済ませ、午後1時半に仕事に戻る。
仕事中に午後の訪問看護の看護師がオムツチェック、バイタルチェック、
痰の吸引をしてくれる。
午後4時半、仕事を終えて私が再度母の部屋へ入り、訪問看護の連絡帳に目をとおす。
オムツチェック、痰の吸引をしてラジオかテレビか母のその時の様子で決めて、
母が元気ならば車いすに座らせる。
午後5時半、三男嫁が母の部屋へ。夕食ほかを介護して1時間ほどで帰る。
私は三男嫁に任せて自分の部屋へもどり、洗濯や時には買い物、夕食、
メールチェックや財産後見人への報告書作成、テレビをみたりしている。
午後9時に訪問介護のヘルパーがオムツ交換、手足のマッサージなどをして、
最後に1日のオムツのゴミをまとめてくれて、帰り際に捨ててくれる。
ヘルパーとはメールでやりとりをしていて、必要なときは私も母の部屋に
降りて立ち会う。
その後自分の入浴を済ませて私は1日最後の母の介護をしに母の部屋へ。
オムツ交換(摘便)、痰の吸引、顔、口腔内の清拭を済ませて、
母におやすみの挨拶をして、母も手をあげて答えてくれる。
ラジオを切って電気を消して、ドアを閉めて自分の部屋にもどり、就寝する。

【木曜日】
仕事は休みの日である。だが仕事の日と同じように朝5時に起きて顔を洗い
着替え5時半に母の部屋へ。
ラジオをつけて、母に挨拶をし、母も手をあげておはようと答えてくれる。
オムツ交換(摘便)、痰の吸引、検温、血圧測定、顔と口腔内清拭、髪をとかし、
ペグからの薬と朝食の注入、ペグまわりのガーゼの交換、カテーテルチップ(注入用の注射器)
ペグチューブの洗浄、チェック表への記入と済ませ、消耗品在庫確認をする。
(オムツ、注入食、吸引チューブ、ティッシュ、お尻ふき、ガーゼ、などなど)
午前8時ごろ、訪問診療の医師が来てくれる。
バイタルチェックをして、内診をして、薬の処方箋を出してくれる。
医師が帰ってから、オムツ交換して、私は自分の部屋にあがり、
ファックスで処方箋を薬局へ送り、薬をペグ注入用に粉砕して置いてもらう。
薬局からの電話連絡で薬局へ薬を取りに行く。
この時に必要ならば区役所や銀行など平日にしかできない手続きもする。
持って帰った薬を毎食時に服用する分ずつを小袋に仕分けして置いておく。
薬の処方は2週間に一度なので、薬局へ行かなくていい週は、
母の爪切りや耳かき、顔そりなどもする。
午前11時、オムツ交換(摘便)、痰の吸引、ペグからの薬と昼食の注入、
ペグまわりのガーゼの交換、カテチップとペグチューブの洗浄、
チェック表への記入と済ませ、訪問入浴の準備をする。
湯船にお湯を貯めておく。(訪問入浴は寝て入れる大きさのバスタブを持ってきて、
ポンプで湯船のお湯をくみ上げながら、別のホースで排水口に循環してお湯を捨てる)
訪問入浴のひとは3人で1組でまわっている。
バンを駐車できるように私の車をマンション内の友人の駐車スペースを借りて
(親切にも無料で貸してくれている)移動させておく。
入浴中にベッドのシーツや枕カバーなどを取り替え、パジャマなどの着替えも用意する。
ペグまわりのガーゼも交換する。
母はゆったりと湯船につかりきれいに洗ってもらえるのでこの訪問入浴を楽しみに
1週間をがんばっているようなものだ。
訪問入浴のスタッフが帰ったあと、私は自分の車を戻して、
汚れたシーツなど大量の洗濯をする。
母はその間はたいがい昼寝をしている。
午後5時、オムツチェック、痰の吸引をしてラジオかテレビか母のその時の様子で決めて、
母が元気ならば車いすに座らせる。
午後5時半、三男嫁が母の部屋へ。夕食ほかを介護して1時間ほどで帰る。
私は三男嫁に任せて自分の部屋へもどり、自分の用事を済ませる。
午後9時に訪問介護のヘルパーがいつも通り来てくれるので、
必要なときは私も母の部屋に降りて立ち会う。
その後自分の入浴を済ませて私は1日最後の母の介護をしに母の部屋へ。
オムツ交換(摘便)、痰の吸引、顔、口腔内の清拭を済ませて、
母におやすみの挨拶をして、母も手をあげて答えてくれる。
ラジオを切って電気を消して、ドアを閉めて自分の部屋にもどり、就寝する。
休みも仕事に日と同じくらいに忙しい。

週末に関するスケジュールはまた明日記載することにする。

つづく
自宅介護に関する事務のプロ
2012-07-11-Wed  CATEGORY: 介護と兄弟関係
退院後は、毎日が決められてスケジュール通りに時間が過ぎることが、
逆に有り難く思える日々が過ぎていった。

たくさんの介護サービスに関わる人たちがこの母の介護部屋を
出入りするので、それはそれは大変だった。

まず、部屋の鍵は、マンションなので1階ロビーの郵便ポストに
ナンバーを合わせて開ける鍵をつけ、その中に部屋の鍵を置いた。
それぞれの訪問サービスの人たちはその鍵を持って部屋を開け、
母の介護、看護などをしていた。

そのお陰で私は仕事を辞めなくて済んでいる。

どんな人が来ても何がどうなっているかがわかるように
ありとあらゆる書面を部屋に貼り付けていた。

これは↓一週間の介護の朝から晩までのスケジュール表である。
一週間の介護スケジュール
ブルーの部分は全部、私が必ず付き添っている時間帯だ。

そのほかに↓訪問して行ったサービスのチェックを入れる表…
時間ごとのチェック表

母の食事方法や嗜好品、投薬の内容など、明細を記入したもの↓
介護詳細説明書

また、↓身上後見人として裁判所に報告する業務内容の表…
身上後見人報告書

日曜日の夕方から夜の半日だけ介助にくる長男嫁への申し送り表↓など…
長男嫁への作業伝達書

日々、財産後見人に報告する経理、業務のくわしい報告書以外に
介護に関してだけでも、山ほど書類を作成し、
人が変わるたびに同じ事を説明しなくてもよいように
なるべくわかりやすく、記入しやすいものなどを作成していた。

これだけで、相当な事務の給料ももらってもおかしくない…。

つづく
この時期に家族の入れ替わり
2012-07-10-Tue  CATEGORY: 母子生活
母が施設を追い出され、再度自宅介護になるなど
想像もしていなかった時に、我が家で新たに家族となった
保護猫「ゆき」。
「ゆき」は保護されたときに酷い猫風邪を引いていたが、
動物病院の薦めでインターフェロンを投与した。

それがとてもよく効いて、くしゃみの度に飛び出していた鼻水や
いつも目をショボショボさせていたのが、ウソのようになくなった。

ほっとしていた矢先に、すぐにサカリがやってきて、
慌てて避妊手術もし、人間の病院とは別に動物病院も行ったり来たり
していたことになる。

そんなときは人間は判断能力が落ちるようで、
18歳で運転免許を取得してから一度も違反切符を切られたことのない
私が、立て続けにねずみ取りを張っていた道路で「スピード違反」になり、
数日後に黄色信号で進入した交差点で「信号無視」を罰せられた。

自分の用事で急いでいるのではなく、母の介護であわてていて
こんな違反にひっかかるのが、とても皮肉に思えて、やっぱり
この世に神様なんていないと思った。

また、母の見舞いにも来てくれたアメリカの友人の息子さんが
事故で亡くなったと知らせが入ったが、私には母も猫もいるので
アメリカまでは行けずに日本で電話越しで悲しんだ。

アメリカのダンス留学から戻ってきた娘は、就職も内定されているので
所属の競技ダンスクラブとその仲間と遊びほうけていて、
母の世話や猫の世話の手伝いもあまりしてくれない。

一緒に住んでいるだけでイライラしたので、娘に
就職したら自分の給料でやっていけと、一人暮らしを促した。

今となっては、ほとんど大人と成長した娘よりも
小さくかわいい猫「ゆき」のほうが癒されて家族だと思えた。

娘は無事に就職してすぐのゴールデンウィークに一人暮らしをはじめて
家をでた。

つづく
退所後も関わる施設…
2012-07-09-Mon  CATEGORY: 介護と兄弟関係
自宅介護をし始めて、2週間が経っていた。

母が、また熱を出し、この日、私は母の部屋で仮眠用のベッドで寝た。
とてもじゃないが、気になって眠れなかった。

翌朝訪問診療の医師に診察してもらい、すぐに病院に紹介状を書くから
再入院したほうがよいと言われた。

また病院に再入院だ…。入院中は点滴治療を受けながらも、
高熱、嘔吐が続き、結局1ヶ月の入院をやむなくした。
自宅介護の決意が揺らぎそうになる…。

入院中、追い出された特養の施設長から電話があり、
次男嫁から、理事長自宅と主治医宛に配達記録で
施設長を中傷する内容の手紙が届いたとのことだった。

すでに退所しているのに、まだ次男嫁が施設に嫌がらせを
していることには驚いたが、それを、私に電話してくる
施設長もどうかと思った。

この手紙は身上後見人である私も読んでおいたほうがいいだろうと
いうことになり写しを郵送してもらった。
それを読んだ上で、まとまりのない文章でいったい何がいいたいのは
さっぱりわからない文面に戸惑いながらも、
施設長に電話し、私はもう施設に母を入居させていないし、
これらが私宛の苦情でないこともあり、何も口を出せないとお話した。

それとは別に施設長に現在の母の様子を聞かれたので、
自宅介護を始めていることを伝えた。
施設長はショートステイならまた利用してくださいと言っていたが、
責任がとれないので退所してほしいと言われた以上、
ややこしいので利用するつもりはなかった。

次男嫁のことは施設のお抱えの弁護士に相談すると言っていた。

母は5年前のはじめて自宅介護をしたときは、介護度5に認定されていたが、
施設に入居すると、それだけ余裕があると見なされて、介護度4に落ちていた。
退院後に午前の訪問介護を、吸引や摘便ができる訪問看護に代える必要があり
介護保険ですべてカバーしたかったので、介護度の見直しを申請して、
すぐに介護度5も認められている。

そんな手続きを済ませた上で、再度自宅介護に戻った。

つづく

仕事と自宅介護の一日
2012-07-08-Sun  CATEGORY: 介護と兄弟関係
自宅介護の準備をして、3月になり、
いよいよ退院の日がやってきた。

ペグからの注入食は、私がインターネットで購入できる
薬局を見つけ、業者から直接買うよりも少し安く購入している。

インターネットで注文すると、部屋まで配送されるので、
相当重い荷物を運んだりしなくてもよい利点もあった。
(今現在では、薬事法の改正により購入できなくなっている?)

オムツは低所得者に大阪市から支給される消耗品購入用の
チケットを利用して、これもメールで注文、配送会社が配達であった。

順調にスタートし、どの訪問サービスの人たちも親切で、
特に母は訪問入浴ではまるで極楽のような顔をしていた。

みたいテレビ番組も無理に起きてオンタイムで見なくても
ビデオ録画して、見逃すこともなく、存分に楽しめる。

テレビだけでなく、ラジオをつけっぱなしにすることができるので、
私が仕事中など、母が一人、部屋で過ごさなければならない時間は
ラジオを聞いて、音楽が好きだった母は満足している様子だった。

また、三男夫婦も仕事から帰るのが遅くても遠慮無く面会に来られて
午後11時くらいまで付き添ってくれたりした日もあったので、
母は感激していた。

私は毎日、午前5時半には入り、母の顔を熱いタオルで拭き、歯を磨き、
オムツを交換、摘便、痰の吸引、朝食と薬の注入などをして、
午前8時には仕事に行った。昼休みを2時間もらっていたので、
午前中に入ってくれている訪問介護の人の連絡帳を読み、
オムツ交換、痰の吸引、昼食と薬の注入を済ませて、自分の部屋に戻り
軽く昼食を済ませてまた仕事に戻る。
午後4時半まで仕事をして、すぐに母の部屋へ。
午後の訪問介護の連絡を見て、痰の吸引、オムツチェックなどをして、
夕食時にくる三男嫁と交替していた。

午後9時に入ってくれるヘルパーと面会する日もあれば、
任せて私は自分の用事を済ませることもあった。
午後11時に再度母の部屋へ入り、顔を拭いて、自分の部屋に戻った。

もちろん、この合間に買い物、財産後見人の弁護士との連絡、
事務処理などなど、自分の生活の家事、猫の世話など、
分刻みの日程をこなすしか、なかった。

つづく
自宅介護に向けての準備と覚悟
2012-07-07-Sat  CATEGORY: 介護と兄弟関係
前回の自宅介護と大きく違う点は、訪問医を依頼したことだった。
いつも大きな病院の主治医に症状を確認することは難しく、
また訪問看護師だけでは不安もある。

自宅の近所で診療所をしている医師が、朝の早い時間に
訪問していると聞き、その医師に基本週1回の訪問を依頼した。

母の移動の負担も減り、部屋で自分のベッドで受診できて
しかも処方箋を出してもらい、後で私が薬局に取りに行けばよい。

すべての在宅サービスの内容や階下で借りる部屋の件を
財産後見人の弁護士にも伝え、弁護士が裁判所に願い出て
了承してもらえた。
自分の母親の面倒をどう見るかを、その都度、裁判所にお伺いを
たてるこの現状には腹立たしかったが、これもすべて次男が
引き起こした悪事の結果である。
次男はもちろん、この母の介護に関しては一切関わらない。

それに引き替え、私はようやく就いた仕事も、またこの自宅介護で
あやうくなっている。
万が一、私の健康上や、仕事、生活の面で、不都合があれば、
仕事をまた辞める覚悟はしていた。

三男嫁も、平日月曜日から土曜日までの6日間の夕食介助、
オムツ交換を引き受けてくれた。
三男嫁は、この時「5年前の自宅介護のときの応援ができなかったのは、
人の家に入るのは気が引けたからだ、今回は母だけの部屋だから遠慮無く
手伝わせてもらう」と言った。
私はそれを聞いてやや複雑だった。5年前の自分の部屋もオープンに
解放していたつもりだったのに、皮肉なものだと思った。
もちろん、そんなことは、当時、手伝わない人間の言い訳けだろうが…。

長男嫁は、皮肉にも自分のヘルパーの仕事があるので、
日曜日の午後から夜まで入ってくれることになった。

今回の自宅介護に踏み切ることで、唯一良いことが、
訪問入浴をまた利用できることである。
母には一番の喜びであった。ずっと椅子浴ばかりで、
湯船に寝てゆっくり浸かることは、5年前の自宅介護以来である。

そんな手配にバタバタを追われている間、入院中の主治医は
退院の時期を待ってくれていて、いつも窮地のときに助けてくれる
母には有り難い病院だ。

特に主治医はうちの事情を理解してくれて、とても協力してくれた。
痰の吸引器も、診断書をもとに大阪市の補助で支給された。

吸引に必要なチューブやカテーテルなどは訪問看護の人が
補充してくれて実費を払うことになった。
私も退院前に何度も看護師に吸引の仕方を教わり、練習した。
喉に管を入れるので、コツを覚えるまではとても緊張した。

私はこうやって母の介護をすることで、ヘルパーの仕事のみならず
看護師がする医療行為も数多くこなせるようになった。

家族ならば責任がとれるので、体内にチューブやら、挿入する行為を
許可されるのが、不思議だったが…。

つづく

自宅介護に向けて
2012-07-06-Fri  CATEGORY: 介護と兄弟関係
どこかの療養型の病院に転院することを、まわりが薦めたが、
また、ここより遠い病院に日参することを考えるとぞっとした。

「療養型」とはいえ、結局は寝たきりで、今より体制がよくなる
ことは何もないようだったし、病院を次々に変更するのはもういやだった。

私が自宅介護に向けていろいろと考え出したことを知り、
三男夫婦は、私の健康上、無理ではないのかと、初めは反対したが、
5年前の自宅介護のときは、母もまだまだ回復の見込みがあったので
私の負担を多くして、出来る限りのケアを入れていた。
再々のトイレ誘導、車いすとベッドの度重なる移動、
リハビリ(歩行訓練など)や、きざみ食事の用意、病院への通院付添など…
である。
今、考えても、こんなことをしていたのだから、私が倒れても無理はない。

今回の自宅介護は、母がそんなに動き回れないこともあり、
もっと落ち着いた日程になると思っていたし、前回のように
私一人でするのではなく、在宅サービスをフル活用して
人の手を増やすことでなんとかなるのではないかと思った。

問題は摘便や痰の吸引を1日に何回もしなければならないことであった。
在宅のケアマネージャーを病院の生活支援課の先生に探してもらい、
訪問看護をできるだけ多く利用して、夜遅いヘルパーなど、
フルに介護保険を使い、母の居室は私の家ではなく、
再度、階下で1Kタイプの狭い部屋を借りて、
そこを病室のようにし、鍵を訪問サービスの人が開けて、
自由に出入りして、私が不在でも看護、介護をして帰れるような
プランにした。

とは言え、私も仕事にも出ているし、自宅では猫も飼っている。
不安は山ほどあった。

とにかく、私は早朝、仕事の昼休み中、そして夕方の仕事から帰ってからすぐと、
最後に夜中に入ることにした。

これだけでも驚異的ではあるが、前回のように24時間ずっと
母の面倒を見ることとではないので、精神的に救われると思っていた。

つづく
施設からの拒否
2012-07-05-Thu  CATEGORY: 介護と兄弟関係
年末年始を病院で過ごして、年も明け、正月気分も薄れたころ、
母の微熱もなく、無事にペグ交換手術も終えた。

その一週間後に退院してもよいとの許可が出たので、
それを施設に連絡すると、ケアマネージャーは、
「今までの病状を聞かせてもらった限り、
もううちの施設ではお母さんはお預かりできません。」と
退所勧告をされてしまった。

私は愕然として、しばらく言葉が出てこなかった…。

一旦電話を切って、すぐに、入院中の病院の主治医に話し、
施設の主治医に電話で説得してもらったが、
施設の医者はがんとして戻ることを拒否してきた。

病院の主治医もあきらめて電話を切り、
「次をどうするか、考えようか…」と残念そうに言ってくれた。

施設が戻ってくることを拒否した原因の一つに、
今もなお苦情を続ける「次男嫁」のことや、
院内感染の恐れのある「MRSA菌」のこともあったのだろう。

他の特養施設に入居はもう不可能なので、結局は、
療養型の病院に転院するか、5年前のように自宅介護に戻るかを
決断しなければならなかった。

つづく
思わぬ展開
2012-07-04-Wed  CATEGORY: 母子生活
この子猫を預かったあと、引越が終わり戻しに行ったら
すでに飼われている犬2匹に部屋で追いかけ回されている姿を
見てしまった。

猫も私に救いを求めるような眼差しで見つめてくる。
その時は、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れたが、
後日、よく考えて、この猫をうちで引き取ることにした。

母も今は入院中ではあるが、年明けにはまた施設に戻れると
思っていたし、娘も来年は就職だから、何とかなると
思った。

3日後、その猫を引きとり、雪のふる季節に我が家にやってきて、
幸せになってほしいと思い、名前を「ゆき」と決めた。

たぶん生後5ヶ月ごろだろうとのことだった。
12月でそんな大きさってことは、生まれたのは7月初めごろとなり、
誕生日をそのあたりの覚えやすい日ということで、
アメリカ独立記念日と同じ7月4日と決めた。

ということで、今日は「ゆき」の誕生日である。

つづく
運命的な猫との出会い
2012-07-03-Tue  CATEGORY: 母子生活
母が入院して2ヶ月が経ち、退院も年明けにすると決まった
その年の暮れに、向かいのMさんから連絡があり、
猫を1日預かって欲しいとのことだった。

Mさんは、親戚の若い夫婦が、大して裕福でもないのに
犬を2匹飼っていて、賃貸が手狭なので、中古ではあるが、
ローンでマンションを購入することになり、その引越の手伝いで
バタバタとしている時期だった。

なのにその若い夫婦がまた、捨て猫を保護したらしく、
Mさんの家も先日、子猫を引き取ったばかりなので、
他に里親を探してはいるが、引越当日には間に合わない。

で、引越当日にその子猫をうちで預かってほしいとのことだった。

私は、母も入院中で時間がとれるので引き受けた。

その子猫は風邪を引いていて、くしゃみばかりをして
すごい鼻水を出し、目もショボショボして辛そうだった。

でも、保護されるまでよっぽど辛かったのか、
我が家にくるなり、私にゴロゴロ甘えて居心地良さそうに
スヤスヤ眠っている。
兄たちの不義理さにヘキヘキしている私には、そんな
無垢な子猫がとても愛おしく思えた。

つづく
微熱と退院延期の繰り返し
2012-07-02-Mon  CATEGORY: 病院
入院して1ヶ月ほどが経ち、ようやく退院許可が出て、
また施設に戻る手配をしていた。

注入食の仕入れなどを施設もしなければならないので、
前もって連絡しなければならないし、母の介護、介助の
道具一式(消耗品も含め、いろいろな道具が必要だった)を
移動させるだけでも重労働だった。

退院日を決め、それまでは皮膚科を受診して
ペグ周りの皮膚のただれや肉芽(肉が盛り上がってしまうこと)を
薬品処置してもらったりしていた。

しかし退院前日に、再び高熱が出て、やむなく退院延期になった。

これを数回繰り返し、結局、微熱の原因はMRSA菌だと診断された。

ペグは半年に一度、管の交換手術をしなければならず、
年明けがその時期だったので、病院で安心して年を越して、
年を明けたらペグ交換をしてから、退院すればよいだろうと、
主治医が言ってくれ、そうすることにした。

施設ですでに仕入れてしまっている注入食は、私が買い取り
そのまま病院に持参して、それを看護師に注入してもらうことにした。
看護師長がとても理解のある人で助かった。

特別養護老人ホームは入院しても3ヶ月は待ってくれる。
それまでに退院して戻ればまた入居させてもらえることは知っていた。
母が入院したのは10月下旬だったので、年明けの1月下旬までに戻れば
大丈夫だろうと思っていた。

しっかり微熱やMRSA菌をなくして万全で退院させたかった。

このMRSA菌のことを施設にはこの時点では話していなかった。

つづく


また入院生活
2012-07-01-Sun  CATEGORY: 病院
秋も深まった10月下旬、母が病気になった。

母の症状は、高熱が出て、ペグから注入した注入食を、口から嘔吐した。
口からは摂取できないのに、胃から入って口から出すのが、
あまりに過酷な現実だ。
吐いたものを再び誤嚥して、肺炎を起こす可能性が高かった。

高熱、嘔吐が続き、施設の主治医が自分でまた
入院手続きをするようにうながした。

系列でない病院に入院することが、この主治医には
気に入らないらしく、また次男嫁の嫌がらせも続いているので
ちょっと冷たくあしらわれている感じがした。

しょうがなく、自分でまたかかりつけの病院に入院手続きを
しにいった。

病院に到着後、すぐに入院許可が出て、そのまま病棟へ。
病院の主治医と面談、点滴治療をしながら様子を見るが、
MRSA菌感染の疑いもあるので、ゆっくり検査をしようと
言ってくれた。

私は毎日、夕方に病院に通ったが、三男嫁も毎日来ていた。
交替で洗濯物を持って帰った。

点滴治療が効いて、高熱や嘔吐はなくなったが、
しばらく微熱が続き、すっきりと退院できるまでには
至っていなかった。

つづく
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