あいかわらず母は、ドロドロしたペースト食で、しかも
完食までに1時間かかり、水分を口から摂取しても
むせることが多くなっている。
嚥下能力が低下してきているようだった。
もう、キザミ食にもどったり、左手であんパンをもって
ぱくついていた母には戻れそうもなかった。
だが、体力の低下とは別に、生きる気力はまだまだあり、
大好きなテレビでの相撲鑑賞もかかさず出来て、
特に水戸黄門があるときは私が午後8時から一緒に
食堂のテレビを独占で見させてもらえて、
母もそれをとても楽しみにしていた。
2人でゆっくりテレビをみたり、天気のいい日に
近くの公園に散歩に行ったりするのが、
母の数少ない楽しみだったようだ。
特に三男がくると泣いて喜んでいた。どんなに私や三男嫁が
介護していても、男の存在は母には別のようで、息子がきたということだけで
テンションが上がっていた。
このことは、ずっと介護しつづけている私にはきついものがあったが…。
父がなくなって、1年半以上が経過し、冬も終わってようやく
母が倒れてから3年が過ぎた春を迎えていた。
その頃、以前に入院中に見舞ってくれた私のアメリカ人の友人も
その春に再来日していて、この施設に母の面会にきてくれている。
スタッフが「外国人のお友達がいてすごいね!?」と母に大きな声で話すと
そう言われてその時の母の得意気な顔は今も忘れられない。
特養ではリハビリなどはないので、良くなることはなくても
せめて現状を維持してほしいと願っていた。
それには、こんなメンタルな配慮が母には必要だった。
つづく
完食までに1時間かかり、水分を口から摂取しても
むせることが多くなっている。
嚥下能力が低下してきているようだった。
もう、キザミ食にもどったり、左手であんパンをもって
ぱくついていた母には戻れそうもなかった。
だが、体力の低下とは別に、生きる気力はまだまだあり、
大好きなテレビでの相撲鑑賞もかかさず出来て、
特に水戸黄門があるときは私が午後8時から一緒に
食堂のテレビを独占で見させてもらえて、
母もそれをとても楽しみにしていた。
2人でゆっくりテレビをみたり、天気のいい日に
近くの公園に散歩に行ったりするのが、
母の数少ない楽しみだったようだ。
特に三男がくると泣いて喜んでいた。どんなに私や三男嫁が
介護していても、男の存在は母には別のようで、息子がきたということだけで
テンションが上がっていた。
このことは、ずっと介護しつづけている私にはきついものがあったが…。
父がなくなって、1年半以上が経過し、冬も終わってようやく
母が倒れてから3年が過ぎた春を迎えていた。
その頃、以前に入院中に見舞ってくれた私のアメリカ人の友人も
その春に再来日していて、この施設に母の面会にきてくれている。
スタッフが「外国人のお友達がいてすごいね!?」と母に大きな声で話すと
そう言われてその時の母の得意気な顔は今も忘れられない。
特養ではリハビリなどはないので、良くなることはなくても
せめて現状を維持してほしいと願っていた。
それには、こんなメンタルな配慮が母には必要だった。
つづく
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